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世界遺産・国宝の姫路城と姫路市内観光-#2

天空の白鷺から姫路城見学

主な訪問地:姫路城(天空の白鷺)

姫路城を建てた棟梁の謎の死、城が戦火を免れた本当の理由、お菊井の底にあるものは・・など、ボランティアガイドさんが語る姫路城にまつわる小話を紹介。

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姫路城小話 その一:桜井源兵衛の謎の死

姫路城は、1601年から足かけ9年の歳月をかけて池田輝政が築城したものだが、実際にこの建設に携わった人は、大工の棟梁の桜井源兵衛をはじめとする2400万人もの人たち。

釘はほとんど使わず木を組んで建て、雷よけのために金属も全体で450トンほどしか使っていない。
設計図は1万枚を超えるほどだったが、源兵衛らの努力の甲斐ありその設計図通りに仕上がったという。

寝る間も惜しんでこの仕事に打ち込んできた源兵衛は、完成後、その仕事ぶりを奥さんにも見てもらおうと、できたばかりの大天守に連れてきた。
急な階段を登り大天守に立った妻は、源兵衛に一言こう言った。

この大天守、東南に少し傾いていませんか?

それを聞いた源兵衛は、そんなことあるかとその時は激怒して取り合わなかったが、やはり気になり後で調べてみると、実際に傾いていることが判明。
それに責任を感じた源兵衛は、自分のノミを口にくわえて大天守から飛び降りて死んでしまった。

しかし、時がたち、この話を現代の大工さんに話すと、それはありえないとの答えが返ってくる。
大工さん曰く、

建物はまっすぐに建てるより斜めに建てる方が難しい

とのこと。
ではなぜ、このような話が語り継がれてきたのか。

この謎から推測されるのが、実は源兵衛は、自殺ではなく殺されたのではないかという説。
棟梁だった源兵衛は、内部の構造を誰よりも熟知していた。
内部構造は当然極秘事項であり、これが外部に漏れればセキュリティ上重大な脅威となる。
それを恐れた上層部が密かに源兵衛を消し、公開情報として、「自らの失敗を悔やんだことによる自殺説」を捏造した。

さらに、当の源兵衛は、そうなることを予想しつつこの仕事を請けたのではないかともガイドさんは言う。
なぜなら、こんな大プロジェクトのリーダーとして見事に城を完成させれば、間違いなく歴史に名が残る。大工としてこんな名誉なことはないからだ。
源兵衛は自分の命をかけ姫路城の仕事に取り組んでいたのかもしれない。

そしてその思い通り、400年たった今でも「桜井源兵衛」の名は見事に語り継がれている。
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でももし、本当に源兵衛が殺されることを知っていたら、

どうせ死ぬなら誰かに殺される前に、潔く自の手で命を絶とう

と考え、失敗したからではなく、そういう理由で自殺した可能性もあるかも。
特にあの時代なら考えられなくもない・・とふと思いました。

今となっては真相は闇の中ですが、ガイドさん曰く、少しくらいわからないことがあるほうが面白いと言っていました。

姫路城
姫路城小話 その二:主のいない大天守

姫路城の築城には、長い歳月と膨大な人員がかかったことはすでに書いたとおり。

普通なら、そんな手間隙かけて作った城で、まさに天下をとった者にしか見られない景色を眼下に眺めながら暮らしたいと思うだろう。
ところが、実際は、主である殿様はそんなに頻繁に訪れなかった。

なぜなら、お城の中の階段は、敵が攻めてきても容易には登れないように急角度で作られいて、姫路城の大天守といえば、建物だけで31.5mもの高さがある。
当時はエレベーターなるものは当然なかったから、上に行くにはその急な階段を登らなければならない。そして登ったら下りなければならない。

にもかかわらず、殿様は足腰が弱かった。

幼い頃から過保護に育てられ、どこかに移動するにも馬だ籠だと自分の足で歩くことが少なかった。
そのため、城のてっぺんまで行きたい気持ちはあるものの、とても体がついていかなかったのである。

しかし、それでも天下とりの景色をどうしても見たいときはがんばって登ったらしい。
恐らくその内の何回かは、頂上までたどりつけずにやむなく下山ということもあっただろう。その時のお付の人の苦労が目に浮かぶ。

そんな主不在の大天守には、シフト勤務で24時間警備にあたるたった5~6人の侍がいただけだった。
まったくもってもったいない。

では、そのひ弱な殿様はどこにいたのかというと、かつて、大天守の麓に建っていた平屋の御殿で暮らしていたという。

現在、その建物はもうないのだが、数年前、熊本城の御殿が復元されたことから、姫路の御殿もにわかに注目されたことがある。
熊本城の復元を知った姫路市民から、

じゃあうちも

と、御殿の復元に対する声があがったのだ。
しかし、熊本城の復元費用に50億円もかかったことが判明。
さらに姫路城では、大天守の修復にもお金がかかるということで、

そんな金どこにあるんじゃ

と反対意見が続出。
姫路市民としては、熊本城は復元したのに・・という複雑な心境をかかえることになってしまった。
しかしそんな折、我らの姫路城が世界遺産に認定。
そのため、

世界遺産の方が(御殿復元なんかより)すごいじゃん

と、モヤモヤしていた熊本城に対する気持ちも落ち着ついた。
これにより御殿の復元の話は一旦棚上げとなっている。
=====

でもこれでもし、熊本城も世界遺産になったらまた御殿再建の話が出てくるのでしょうか。
私としては、足腰の弱い殿様が住んでいた建物も見てみたい気がします。

姫路城
姫路城小話 その三:姫路城が戦火を免れた本当の理由

昭和20年7月3日、姫路城の城下町一帯はアメリカのB29の爆撃により焼け野原になった。
しかし、姫路城だけは焼かれずにすんだ。

なぜ焼かれなかったのか地元民の間で推測がなされ、その理由のひとつに、

姫路城が美しく貴重な建物だからきっと残してくれたのだろう

というのがあった。
しかし、同じように美しい名古屋城は爆撃されたので、その説を信じるには少々弱く依然として謎だった。

そんな中、世界文化遺産などの指定など、世界からも注目をあびるようになったので、やはりここははっきりさせようということになり、有識者による真相究明チームが組まれた。
彼らは、真相を知っているはずの当時のパイロットを探すべくアメリカに旅立ち、結果、11人も探し当てることができた。
そしてその中の一人、アーサー・トムズさんの証言によって、ついに真実が明かされたのである。

それによると、当時、上官からは姫路城を爆撃するなという指令はいっさいなかった。
出撃したのは夜で、そのころの戦闘機のレーダーは性能が悪く、陸と水面の違いも良くわからないくらいだったので、地上の様子は目視に頼ることが多かった。

一方、姫路城は陸軍と文部省が管理していて、姫路城を守るための対策を行っていた。
城の壁は美しい漆喰の白色だったが、それは遠目にも目立ちすぎる。
そこで黒に塗ろうかという案も出たが、それではあまりに忍びないということで、黒い紐を編んで白壁を覆った。
そのため、夜になるとまわりの闇に見事に溶け込むことができた。

そんな姫路城の上空を暗闇の中飛んでいたアメリカのパイロットたちは、城の周りのお堀に湛えられた水のかすかなきらめきとあたりの闇に、その一帯が湖だと勘違いし爆撃を行わなかったのだ。

こうして姫路城は地元民の努力と幸運によって爆撃を免れたのである。
=====

長い歴史の中には、

もしあのときこうなっていたらきっと歴史は変わっていた

というのがたくさんありますが、これもそんな出来事のひとつかもしれません。
もし爆撃が昼間だったら、黒い網で覆っていなかったら、レーダーの性能が良かったら・・

ガイドさんが「姫路城は奇跡の城」だと言っていましたがそれも納得です。

姫路城
姫路城小話 その四:お菊井にお菊さんはいない?

大天守のすぐ麓にあるお菊井は、実はお菊さんとは関係のない井戸らしい。
井戸が作られた時代とお菊さんがいた時代が合わないからだ。

ではこの井戸はなんなのか。
もちろん水を供給していたということもあるが、有事の際の抜け道になっていて敷地内にある腹切丸に繋がっているのではないかという説がある。

そこで実際どうなのかと、以前、この深さが17mもある井戸に、某テレビ局が入って調査したことがあった。
しかし、底の方にあった横道を奥まで進んでいくと、途中で崩れて行き止まりになっており、調査はそこで断念されてしまった。

結局、未だにその横道がどこに続いているのか不明なままだが、なんともお城のミステリーらしい。

その抜け道の話とは別に、現在、井戸の底にはコインがたくさん落ちているという。
それは当時のものではなく、現代のもの。
どうやら某国のトレビの泉なるものを真似てコインを投げ込む観光客がいるらしいのだ。
=====

でもあれ、後ろ向きで入れないと意味ないんでしょ?とガイドさんは言ってましたが、そういうことじゃなくて、そもそもこの井戸にそういう効能はないし、後ろ向きでコインを入れたところで、誰も願い事を叶えてくれるとは思わないけど。

もしお菊さんの井戸なら、今頃、お皿じゃなくてお金を一枚二枚と数えているかもしれない。

姫路城
姫路城小話 その五:戦における姫路城の仕掛け

姫路城内は、戦仕様に作られている。
いざ戦が勃発したとき、役立つ仕掛けがあちこちにされているのだ。
たとえば、

武器
すぐに武器を手にすることができるように、高い位置にある梁に杭を打ちつけ、そこに銃などの武器をぶら下げておいた。
その杭は金属ではなく木や竹で作られており、武器を思い切りひっぱると簡単に折れるようになっている。

設備

  • 貯蔵庫
    戦になって城に篭城ということになれば、たくさんの食料が必要になる。
    そのため、姫路城には大規模な貯蔵庫が用意されていた。
    貯蔵庫は、大天守の地下などにあり、米、塩を大量に保管。(米にいたっては1300俵分)
    米は長期保存がきくように、焼き米だったらしい。
    それらの食料を中にいながら調理できるように台所も城内にあった。
  • トイレ
    トイレは備前焼の大きな陶器で6個作り、今は3個残っているが、これは結局使用しなかったらしい。
    城内にトイレがあったのは姫路城だけ。

城の造り
城は420本の柱、267の梁、2本の芯柱、111の階段があり、階段は城にしては傾斜が緩やかな方だったが、それでも敵に容易に攻めいれられない程度ではあった。
現在のJR姫路駅あたりが外堀、中堀だった場所は国道二号線になっているが、およそ70万7千坪の城下町に4000人の侍屋敷があり、戦になると姫路城に集結できるようになっていた。
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ガイドさん曰く、人間、米と水と塩があればなんとか生き延びられるのだと言っていました。
確かにそうだと思いますが、できればそんな思いはしたくないなぁというのが正直なところです。

現代においては、敵が攻めてきて城に篭城するような事態にはなかなか遭遇しないと思いますが、災害で似たようなことになる確立は高いので、日ごろから防災グッズをちゃんと準備しておこうと改めて思いました。

しかし、まさか姫路城で防災意識を感じさせられるとは・・。
さすが世界遺産・・ただの城じゃなかった。

姫路城

ガイドさんの話を聞いていると、友人たちが到着。
その後もちょっと話を聞いてから一緒に写真を撮ってお別れしました。
貴重で面白い話をたくさんありがとうございました。

階段で下りながら下の階の展示を見学。
だんだんと人も増え、外国人観光客の姿もちらほら見えました。
最後はエレベーターで姫路城を見ながら1階へ。

姫路城
姫路城
姫路城
姫路城姫路城
姫路城
姫路城
姫路城姫路城
姫路城姫路城

外に出るとどんよりと曇り空。
パラパラと雨も降り出しました。

米らぁ麺ぜん

お腹も空いたのでお昼ご飯を食べに行くことになり、友人おすすめの米らぁ麺ぜんという、100%米粉の麺を利用したラーメン屋さんへ向かいます。
雨足が強くなる中、商店街の中にあるお店に到着。

小さな店内の半分くらいの席を独占し、昼間からビールで乾杯。
ラーメン(チャーシュー入り)とチャーシュー丼を注文しました。

半透明なあっさりスープが美味しくて米粉の麺と良く合います。
お好みであら引き胡椒を入れるとまたいい感じ。
チャーシュー丼は、お肉とタレがご飯全体にまざり濃厚で、ラーメンのあっさりスープと食べるとパクパクいけちゃいます。

米粉のラーメンは初めて食べましたがとても美味しく、みんなも満足していました。

米らぁ麺ぜん
米らぁ麺ぜん

さて、もう一泊する私以外のみんなは、今日姫路を去るので駅まで一緒に行ってそこでお別れ。
東京組み以外はまたしばらく会えなくなりますが、また元気な姿で再会することを楽しみにしています。

次は、千姫物語と姫路グルメへ

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