2014年9月。JAXAとNASAがコラボした宇宙博のレポート。展示品も規模が大きく、スペースシャトルのアトランティスや日本のきぼうなどは中を見ることができた。さらに、4Kならぬ8Kのスーパーハイビジョンシアターで、超綺麗な宇宙の映像も鑑賞可能。過去・現在・未来の宇宙開発が一堂に会する。
NASAとJAXAがコラボして開催されている宇宙博2014に行ってきました。
場所は幕張メッセで、会期は2014年7月19日から9月23日まで。
会場には朝10時半ごろ到着。
入り口には当日券を求めるお客さんが行列を作っていました。
私達は前売り券をすでに買っていたので、その行列を追い越し受付に向かいます。こちらは待つことなくすぐに入れました。
説明用のイヤホンの貸し出しを行っているので、必要な人はここで借りましょう。個人的には、じっくり説明を聞きたい人はあったほうがいいと思いますが、混雑している休日などは一ヶ所に止まっていることが難しい場所もあるので、使いこなすのは大変かも・・という感じです。
まずは、ガントリーアームという「宇宙飛行士が通る道」を通ります。
※以降「●」は案内板の説明
●宇宙飛行士が通る道
入口の上に書いてあるLC-39Aというのは、ケネディ宇宙センターの発射台の番号。
アポロ宇宙船は、ここから打ち上げられた。宇宙飛行士は、この道(ガントリーアーム)を通って宇宙船に乗り込む。
その後一方通行の通路を通って進みますが、道幅が狭く他に抜けられる場所がないので、そこからしばらくは人がたまりなかなか前へ進めません。
その間にもいろいろな展示があるのですが、ゆっくりと立ち止まって見ていられる状況ではないため、できるだけ写真に撮ってあとでじっくり見ることにしました。
●夢の宇宙旅行
今から100年以上前には、宇宙に行くことは夢の話だった。ここは、そのころの小説家や画家たちが想像した宇宙船の形をもとに作った。フランスの作家が書いた「月世界旅行」という物語は、不思議なくらい未来の宇宙旅行を予言していた。
●宇宙を夢見た人たち
月や星は昔から芸術家たちを魅了してきました。19世紀の小説家、ジュール・ヴェルヌは、飛行機や宇宙旅行を夢物語ではなく、現実にできることと考えました。同じ頃、H.G.ウェルズも宇宙旅行を描き、SF小説の父と称されています。地球の外に想像をめぐらせた芸術家もいました。ジュール・ヴェルヌの冒険物語に命を吹き込んだ挿絵作家たち。20世紀になり、宇宙旅行のイメージを世の中に浸透させたチェスリー・ボーンステル。アメリカの宇宙開発を力強く表現したロバート・マッコールなど、作家や芸術家たちを紹介します。
第二次世界大戦によって、ジェット・エンジンからロケットまで、航空技術は飛躍的な発展を遂げました。それまで理論でしかなかったロケット技術も実用的なものが開発され、1950年代終わりから1960年代初頭までには、宇宙開発は人々をわくわくさせる現実のものとなりました。1957年、ソ連が人類初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げ、地球周回軌道にのせることに成功すると、刺激されたアメリカも本格的に宇宙開発に取り組み始めました。戦後の二大強国であるアメリカとソ連の宇宙開発競争の時代を紹介します。
●ソ連の宇宙開発
ソ連のロケット開発は第二次世界大戦以前は民間の研究組織が中心となっていました。後にソ連の宇宙開発の中心人物となったセルゲイ・コロリョフもそうした組織に所属していましたが、当時のソ連政府によって彼をはじめ研究者たちが収監され、ソ連の宇宙開発は中断することとなりました。大戦末期、釈放されたコロリョフは、ドイツが行っていたロケット研究の調査に加わり、その後ソ連の宇宙開発チームを率いて、世界初の人工衛星打ち上げを成功させ、ソ連の宇宙開発が世界をリードすることになりました。
●ユーリ・ガガーリン:ソビエト空軍大佐(1934年3月9日~1968年3月27日)
1961年4月12日 ポストーク1号宇宙飛行士
戦闘機パイロットに復帰したガガーリンは、1968年3月27日、ミグ15での訓練飛行中に墜落、教官とともに死亡した。墜落の原因は明らかにされていないが、悪天候の中、近くを飛行していた機から生じた乱気流に巻き込まれ、操縦不能に陥ったとも言われる。ガガーリンの死は国家的な悲劇であり、国葬が営まれた。遺骨は赤の広場に面するクレムリンの壁に埋葬された。故郷グジャーツクは、国の英雄の功績を後世に残すために、ガガーリンと改名された。
●アラン・B・シェパード、ジュニア:アメリカ海軍少将(1920年11月18日~1998年7月21日)
マーキュリー・レッドストーン3号(フリーダム7号)飛行士 1961年5月5日
アポロ14号 司令官 1971年1月31日~2月5日
アラン・シェパードは、ボストンの北70キロにあるニューハンプシャー州イーストデリーの農場に生まれた。退役陸軍大佐の父を持つ彼は、教室が一つしか無い学校で学び、数学と科学で優秀な成績を修めた。少年の頃、リンドバーグの歴史的な大西洋横断飛行に触発され、航空への強い関心を持つようになる。後に飛行機について学ぶため、地元の空港でも働いた。
混雑エリアを抜けると少し広々とした場所に出て、やっと自由に行き来できるようになります。
ここには、「宇宙に挑んだ先駆者たち」が開発したロケットなどが展示されていて、いよいよ宇宙っぽくなってきました。
●宇宙に挑んだ先駆者たち
宇宙に挑む夢の実現に向けて挑戦を続けてきた科学者たちの研究と、その成果を紹介します。20世紀前半に活躍した最初の挑戦者たちは、19世紀後半のSF小説ブームに影響を受け、宇宙旅行という夢を実現しようと、基礎的なロケット技術の理論化、技術開発を行いました。20世紀前半に生まれた次の世代の人たちは、先人たちの理論と基礎技術を受け継ぎ、より高度な技術へと発展させ、1942年にはロケットによる最初の弾道飛行を達成しました。そのわずか四半世紀の後に、人類初の月面着陸と帰還を実現したのです。
●液体燃料ロケットの理論
宇宙飛行のためには、強力なロケットが必要。そのための液体燃料ロケットは、ソ連の科学者ツィオルコフスキーが理論化した。
ここに書かれている真ん中のスケッチは、ツィオルコフスキーが書いた液体燃料ロケットの原理図。
●セルゲイ・コロリョフ(1906年12月30日~1966年1月14日)
旧ソビエト連邦宇宙計画の中心人物。少年時代に航空学へ関心を持ち、17歳で最初の滑空機を作った。しかし、彼の関心は航空工学からロケット推進へと移った。
1931年には、ソ連初の国立のロケット開発機関の一つ、GIRD(反動推進研究班)の設立に参加、2年後にRNII(ジェット推進研究所)の副部長に任命される。
1938年、スターリン大粛清で逮捕される。同僚たちも研究の遅れを理由に逮捕される。コロリョフは、シベリアの強制収容所へ10年間の流刑を宣告された。後のモスクワの収容所に移され、第二次世界大戦の間、恩師のトゥーポレフとともに、政府のために働いた。
終戦後、スターリンは弾道ミサイル開発を国家的課題とし、コロリョフは主任技師に任命された。
1957年のスターリン死後、彼への告発はすべて不当とされ、世界初の大陸間弾道ミサイルおよび初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げの成功を主導した。
コロリョフは、さらに1961年にユーリ・ガガーリンを宇宙へ運んだボストーク号を開発、ソ連の宇宙計画を主導し続けたが、その健康は過労によって悪化していた。
彼は1966年に亡くなったが、その業績と身元は、彼の死後まで、広く知られることはなかった。
●大気圏再突入:ジュピターロケットから回収されたノーズ・コーン(ロケットの先端の部分)
宇宙開発が始まったころは、まだ大気圏再突入の時にどのような事が起こるのかも良く分かっていなかった。それでロケットの先端部に測定器を積み込んで調べた。これはそのころ使われたジュピターロケットの先端部(ノーズコーン)。
●ネズミを宇宙に送りこむ
人間が宇宙飛行を行う前に、アメリカもソ連も宇宙で生物がどんな影響を受けるか、いろいろな動物を使って実験を行った。アメリカは1950年にV-2でネズミを打上げている。
これはアメリカがネズミを乗せて宇宙に送った時の実験装置。
●ロケットエンジン
アポロ計画に使われたサターンVロケットには、より強力で、細かな制御ができる液体ロケットエンジンが使われました。液体ロケットエンジンは、液体の推進薬(燃料と酸化剤)を燃焼させて高温ガスを高速で噴出させ、その反作用で推力(物体を推し進める力)を得ています。液体ロケットエンジンの主な構成要素は燃焼器と燃焼器に高圧で燃料を送り込むターボポンプで、燃焼器は、燃料を燃やす燃焼室と、燃焼ガスを加速するためのノズル(スカートのように拡がった部分)で構成されています。
●液体燃料エンジン
これがタイタンロケットの第一段のエンジン、左にあるのが第二段のエンジン。もちろん液体燃料エンジン。このタイタンロケットを改良したロケットがジェミニ宇宙船の打ち上げに使われた。エンジンは本物。
●サターンVロケット
サターンVロケットは全長111メートルの大型ロケットで、月を目指すアポロ計画で宇宙船を軌道に乗せるために使用されました。3段式で、1段目にはF-1エンジンが、2段目と3段目にはJ-2と呼ばれるエンジンが使われました。F-1は液体燃料エンジンで、1秒間に12,848リットルの液体酸素とケロシンを燃焼させる強力なエンジンのため、燃焼試験の時にはその衝撃で近隣の家の窓ガラスを破壊する程でした。サターンVロケットは、1973年のスカイラブ宇宙ステーションの打ち上げまで使われました。
●月に向かったロケット
サターンVは全長約111メートル。三段式のロケットだが、その大部分は燃料タンク。一番先にある円錐形の部分がアポロ司令船。この部分が向きを変えて月着陸船とドッキングし、月着陸船をひっぱりだしてから月に向かった。
続いて「宇宙空間での活動」コーナー。
宇宙服の歴史やアポロ月面車などが展示されています。
●宇宙空間での活動
宇宙開発は、ロケットなどの技術的な進歩の物語であると同時に、人類が宇宙空間という地球とは全く異なる極限環境下で肉体的、精神的にどのようにすれば耐えられるかという事への挑戦の物語と言えるでしょう。アポロ計画の宇宙服は、酸素の供給、通信、温度調整など宇宙飛行士の生存に必要なあらゆる機能がそろった、まるで小さな宇宙船のようでした。宇宙飛行士の生命を守る宇宙服、生命維持装置、そして宇宙食などともに、月着陸船や月面車を展示し、宇宙飛行士が挑戦した月面での船外活動について紹介します。
●宇宙服の開発
宇宙服は宇宙空間という地上とは全く異なる環境で宇宙飛行士の生命を守るために開発されました。低圧による体液の沸騰を防ぎ、呼気と換気を行い、温度を調節し、宇宙線、放射能から保護するなど、多面的な機能が求められます。マーキュリー計画では宇宙船内での使用だけでしたが、ジェミニ計画以後は船外活動の時に、極端な温度変化や、宇宙塵から宇宙飛行士を守るために、さまざまな改良が加えられました。アポロ計画の宇宙服は背中に背負った生命維持装置を合わせると、地球上では82キログラムにもなりました。
●アポロ宇宙服
これはアポロ計画で使われた宇宙服のカットモデル。宇宙服は全部で11層でできている。動きやすいことと、宇宙飛行士を宇宙の過酷な環境から守るために、いろいろな工夫がされている。
●宇宙を目指した女性たち
アメリカには、最初のころは女性の宇宙飛行士はいなかった。そこで、自分たちが宇宙飛行士に適していることを証明した女の人たちがいた。それがこの13人。でも、最初のアメリカ人女性が宇宙を飛んだのはその20年後だった。
●宇宙食の開発
宇宙食はソ連で開発が始まり、初めて宇宙で食事をしたのもソ連の宇宙飛行士でした。マーキュリー計画では、一口サイズの乾燥固形物や、チューブに入った液状の食品でしたが、アポロ計画では、質とメニューが改善し、お湯が使えるようになったため、乾燥した食品を水で戻し、スプーンを使って食事ができるようになりました。その後スカイラブ計画では、容器はアルミ缶となりました。現在は、より地上の食事に近づき、レトルト食品やフリーズドライ食品の他、新鮮な果物や野菜を食べることができます。
●月面探査車
ソ連は、1970年に世界で初めてロボット探査車ルノホート1号を月に送りこんだ。ルノホートとは「月面を歩くというもの」という意味。その後、1973年にはルノホート2号を送りこんだ。それは1977年に打ち上げを予定していたルノホート3号のモデル。
●アポロ月面車
アポロ月面車は1971年のアポロ15号計画の時に初めて使用されました。動きづらい宇宙服を着用した宇宙飛行士の徒歩移動は限られていましたが、月面車によって月面探査の範囲が広がりました。ユージーン・サーナン宇宙飛行士により、月面で時速18キロメートルが記録されています。アポロ17号のハリソン・シュミット宇宙飛行士は、「月面車なしでは、アポロ15号、16号、17号の大きな発見の数々は不可能だった。月の歴史についての現在の我々の知識も得られなかっただろう」と述べています。
●アポロ月着陸船
1969年7月20日、アポロ11号の二ール・アムストロング宇宙飛行士の人類初の月面歩行を、6億人以上の人々がテレビで見たと言われています。月着陸船の設計は1962年から始まり、重量を軽くし、安全性を高め、様々な問題を解決するために、何度も改良されました。最初の課題は、コックピットの窓と座席の重量でした。最終的に宇宙飛行士は立ったまま飛行し、小さな三角形の窓で視界を確保することになりました。月着陸船を支える脚の本数も問題でしたが、最終的に4本とすることで決着しました。
●月着陸船の脚
月着陸船は、上部と下部に分かれていて、月面に降りる時は下の大きなロケットエンジンを使い、4本脚で月面に着陸した。月から飛び立つときは、下部を発射台にして、上部だけが上昇した。これは、月面につく脚の部分(フットパッド)。
アポロ月着陸船の造りが、とてもシンプルで簡素なのに驚きました。
でも考えてみれば、あまり精密に作りこんでしまうと故障の原因が増えるので、月面での移動のみを目的としたものなら、これくらいの方が修理もしやすくかえっていいのかもしれませんね。
他にもアポロ計画で使用されたカメラや様々な道具、傷だらけのハッチなどの展示もあり興味深かったです。
「技術革新」コーナーに行くと、展示品がまた一段とスケールアップしてきました。
●技術革新
新しい発想、新技術、不可能を可能にする新しい方法である技術革新は、宇宙開発のかなめとも言えるものです。アメリカ初の有人宇宙船マーキュリー、ドッキング技術の開発など月面着陸に必要な技術を詰め込んだジェミニ宇宙船、史上初めて人類を月に送り、無事に帰還させたアポロ司令船と着陸船など、月に人類を送り込むために積み重ねられた技術革新の数々を紹介します。
また、アポロ計画以降、宇宙開発は国際協力の時代となり、宇宙の本格的な利用に向けて開発されたスペースシャトルに関連した技術も紹介します。
●マーキュリー計画
1959年から1963年に行われたマーキュリー計画には、有人宇宙船による地球の周回、宇宙での人体機能調査、宇宙飛行士と宇宙船の地球への帰還という、3つの目的がありました。1961年、マーキュリー宇宙船でのアラン・シェパード宇宙飛行士による飛行がアメリカ初の有人宇宙飛行となりました。アメリカ初の有人地球周回飛行は1962年、ジョン・グレン宇宙飛行士により成功しました。マーキュリー宇宙船の1人乗りの狭さは宇宙飛行士たちに、乗るのではなく宇宙船を着るのだと評されました。
●宇宙船を着る?
1961年5月5日、アメリカの最初の有人宇宙飛行に成功したマーキュリー宇宙船は、一人乗り。乗るところはとても狭かったので、宇宙飛行士たちは宇宙船に「乗る」のではなく宇宙船を「着る」と言っていた。全部で6回の宇宙飛行に成功した。
●二人乗り宇宙船
ジェミニ宇宙船は、軌道の変更やドッキング、船外活動の訓練のための二人乗りの宇宙船。マーキュリーよりは大きくはないが、一人分のスペースはまだ小さかった。後ろの白い部分には、燃料や飲料水、固体ロケットなどが入っていた。
●月面の足跡
アポロ11号で最初に月面に降り立ったアームストロング船長が言った「この一歩は・・・」という言葉は有名だが、この写真は月面に残された足跡。月の表面はとても細かい砂(レゴリス)で覆われているので、足跡がはっきり残る。
●アポロ13号
アポロ13号は、酸素タンクの爆発で、燃料電池が使えなくなり、二酸化炭素を取り除くことができなくなったが、いろいろな工夫をして無事帰還できた。ここにあるのはアポロの燃料電池や二酸化炭素を取り除く装置。
●NASAの管制室
●アポロ司令船前部ハッチとソ連のドッキング機構インターフェース型板と運搬用の箱
●アポロ宇宙船ドッキング装置
●アジェナ標準機
ドッキングの練習のためにジェミニ計画で使われた。
●地球帰還時に使用するジェミニ宇宙船の浮き輪
「宇宙服を着る」ということからもわかるように、初期の宇宙飛行はかなりのストレスに耐えていたのでしょうね。
今でも、進化・改善されているとはいえ、重力もなく、水や酸素が限られた密室空間での長期滞在は大変だと思いますが・・。
さらに技術革新の部屋が続きます。
奥に進むと、天上から吊るされたオレンジ色の大きなパラシュートが現れました。
今回の宇宙博の見所のひとつ、アポロ司令船です。
●アポロ司令船
アポロ司令船は、三人乗りの宇宙船。この中で月までの往復、10日から13日間を過ごした。月に着陸した二人は月面を歩き回ることができたが、一人は司令船を操作しながら月のまわりを回って二人を待っていた。
●スカイラブ計画
当初20号まで計画されていたアポロ計画が予算削減によって17号で打ち切りとなったために、残ったサターンロケットを利用して宇宙長期滞在を可能とする宇宙ステーションを打ち上げるスカイラブ計画が実施されました。
1973年に打ち上げられたNASA初の宇宙ステーション、スカイラブは重さ91トンで、人間が居住できる空間を持ち、宇宙飛行士たちの専用のロッカーと、寝るための場所が提供されました。宇宙環境における人体の反応に関する科学的実験や太陽の観測などが行われました。
●スペースシャトル
真ん中の茶色いところが外部燃料タンク、その両側についているのが固体燃料補助ロケット。そして飛行機のような形のところが軌道船(オービター)。固体燃料補助ロケットのノズルから、外部燃料タンクの先端まで、56メートルある。
●スペースシャトルのタイヤ
スペースシャトルには主脚に4つのタイヤ、前脚に2つのタイヤが使われている。主脚タイヤは1回使うだけ、前脚タイヤは2回使うと交換する。タイヤの中には窒素ガスが入っていた。このタイヤは主脚のタイヤ。
大きなシャトルの周りに行列ができていたので行ってみると、そのアトランティス号の操縦室を見学できるとのこと。40分待ちと言われましたが、20分ほどで順番がきました。
●スペースシャトル・アトランティス号
スペースシャトルは再使用可能な固体ロケットブースター2つと、液体水素と液体酸素を搭載した外部燃料タンク、そして、よく知られている有翼のオービター(軌道船)で構成されています。オービターの胴体部分は貨物室が大部分を占めています。機首部分の上部、フライトデッキには操縦室、その下のミッドデッキには乗員の居住区があります。居住区には、トイレや睡眠のための設備、キッチンや倉庫が配置されています。機首部分は宇宙服を着用せずに活動できる環境に保たれています。
●スペースシャトル・コロンビア号
2003年2月1日、28回目の飛行を行ったスペースシャトル、コロンビア号は宇宙でのミッションを終了し、帰還へと向かいました。しかし、フロリダへの着陸の16分前、大気圏再突入の際に空中分解し、搭乗していた7名の宇宙飛行士全員の命が失われました。NASAは打ち上げ時の映像記録を解析し、打ち上げの時に外部燃料タンクから剥がれ落ちた25キログラムの発泡断熱材が翼にぶつかり、耐熱タイルに穴をあけ、大気圏再突入の時、熱い気体がその穴から進入し、翼の骨組みを溶かしたことを突き止めました。
アトランティス号のあと、その向かいにあった8Kのハイビジョンシアターに行ってみました。
ここもたくさん人が並んでいましたが、一回の収容人数が多いので15分くらいで入場。
中には大きなスクリーンがあり、びっくりするくらい綺麗で迫力のある宇宙映像を見ることができました。
今回の宇宙博のメインのひとつ、火星探査車キュリオシティの展示です。
●マーズ・サイエンス・ラボラトリー 火星探査車キュリオシティ
NASAによる火星探査車キュリオシティは、火星探査が始まって以来初めてとなる火星表面の本格的な掘削を行い、試料を採取するなど多くの成果をあげています。また、自然放射線量の測定など、将来の火星有人探査計画に必要なデータの収集も行っています。2014年4月、キュリオシティはさらなる新発見を求め、4つの異なる種類の岩石が重なりあった「キンバリー」と呼ばれる地点に到着し、大規模調査を開始しました。キュリオシティは、今年の6月24日に火星着陸から1火星年(地球の1.88年)を迎えました。
●火星探査
1898年にH・Gウェルズが、火星人の地球侵略を描いたSF小説「宇宙戦争」を発表してから現在に至るまで、火星は数多くの小説や映画の題材として扱われ、世界中の人々を魅了し続けてきました。
1960年代以降、火星の謎を解明するために始まった火星探査は苦難の連続でした。2000年代後半に入ると、NASAによる火星探査ミッションが数多く実施され、水の痕跡や水が流れていることを示す証拠が発見され、さらにかつて微生物の生育に充分適した環境であったことを明らかにするなど、着実に火星の解明が進められています。
●火星隕石(ナクライト)
火星隕石は、約13億年前に固結した火星岩で、巨大な隕石が火星に衝突して、岩石の一部が宇宙空間にはじき出され、地球に到達したもので、含まれるガス成分が火星の大気と一致することから火星起源とされています。水が存在しないとできない鉱物を含んでいることから、火星に水が存在した証拠をもっている隕石です。
1 2