川越小江戸史跡めぐり
蔵造りの街並みや歴史ある史跡観光
2015年4月。江戸の雰囲気漂う蔵造りの街並みや川越城本丸御殿、川崎大師喜多院などの史跡めぐりを楽しんだ。東京から乗り換えなしで行けるようになった日帰り観光地。
東京(自由が丘)~川越
東京から乗り換えなしで川越へ
今年開通した横浜から川越まで乗り換えなしで行ける路線に乗って、川越散策に行ってきました。私は土曜日のお昼前に自由が丘から乗車したのですが、渋谷まではけっこうな混雑振り。その後、新宿、池袋とだんだんと空きそこから先はガラガラになりました。
自由が丘から川越までは1時間程で到着。川越駅に降り立つのはたぶんこれが初めてだったと思うのですが、とても大きくて賑わっていました。
駅には観光案内所もあり、そこで散策マップを入手。私たちは歩いて周るつもりでしたが、人気の観光地を巡る小江戸巡回バスも出ているので歩くのが嫌ならそういうのも利用できます。
川越駅東口からクレアモールを抜け大正浪漫通りを経て蔵造りの町並み(一番街)へ。写真を撮りながらちょっと寄り道したりして30分くらい。
蔵造りの街並みと時の鐘
その通りに出ると、いきなり映画のセットのなかに入ったような気分になります。道の両側にどっしりとした黒い瓦屋根が連なり、視界に近代的な高いビルが見えないのもいい。ただ、通りには車も通れるようになっているのですが、それがちょっと残念。通りの細い歩道はたくさんの観光客であふれ自分のペースで歩きにくいので、銀座とかのように、混雑する週末の一定時間だけでも歩行者天国にしたらいいのになと思いました。
そんな感じで歩きにくいし、写真も撮りにくいしでじっくり見学するというよりはさーっと一巡り。
昔ながらの商店はどこも味があり、一ヶ所入った刃物屋さんは店内もステキ。
さらにメイン通りからいくつも路地が分かれているのですが、その細い路地に入るとまたいい雰囲気です。人ごみに疲れたらそういう路地裏に入って一休みするのもいいかもしれません。
最後に蔵造りの町並みのランドマーク「時の鐘」を見学。
旧 多賀町(現 幸町)
多賀町は昔桶屋が開いたので箍町と呼んできたが、音を通じて多賀町と改めた。桶師取立の町として城主に桶大工の役銭を毎年出して諸役は免除の所であったと言われる。時の鐘は寛永の頃酒井忠勝が城主の時に造られ現在の鐘楼は明治二十六年の川越大火の後元の姿のままに再建されたものである。この鐘の傍らに薬師と稲荷社があり薬師は昔本町から移したものである。(案内板より)
時の鐘
時の鐘は、江戸時代の初期、酒井忠勝が川越城主(1627~1634)のころに建設されたと伝えられています。その後何度か焼失し、現在の時の鐘は、明治26年の川越大火の翌年に再建されたもので、高さは16メートルあります。平成8年には、環境庁の「残したい日本の音風景百選」に選ばれています。(案内板より)
薬師神社の由来
薬師神社は、以前瑞光山医王院常蓮寺という寺でしたが、明治維新の折に薬師神社となりました。御本尊は薬師如来の立像で行基菩薩の作といわれています。五穀豊穣、家運隆昌、病気平癒、特に眼病にご利益があるといわれています。右奥の稲荷神社は、出世、開運、合格に著しいご利益があるといわれています。(案内板より)
その後、すぐ近くのお店で遅めのランチをしました。私は一番人気の海鮮丼。川越は薩摩芋が名物なのでデザートにお芋のお菓子がついていました。
東日本唯一の本丸御殿遺構 川越城本丸御殿
ランチのあとは蔵造りの町並みから離れて、日本100名城の川越城本丸御殿へ。拝観料は一人100円。
川越城本丸御殿
弘化3年(1846)の二ノ丸御殿の焼失により造営された本丸御殿は嘉永元年(1848)に竣工しました。造営にあたっては、当時の城主松平大和守斉典が石高17万石を誇る大名であったことから、その格式にふさわしい威容を持つ御殿が造られました。巨大な唐破風を持つ玄関やその両脇に連なる櫛形塀などは、その象徴的な意匠とすることができます。
現在では玄関・広間部分と家老詰所など、その一部が残っているのみですが、その頃に描かれた「本城住居絵図」などを見ると、広大な御殿であったことがわかります。現在お本丸御殿の南には城主との対面の間を擁する「大書院」があり、その西側には城主の住まいなどの私的空間である「中奥」・「奥向」が連なっていました。
また、現在の本丸御殿から西に伸びる廊下には御殿内最大の居室である「御時計の間」や城主の食事を作る厨房があり、その最も西側に家老詰所がありました。(案内板より)
建物の中は、さきほどの人ごみとはうってかわって静かで、外からの風が吹き抜け気持ちいい。城とは言っても御殿、お屋敷のイメージの方が強く、いわゆる姫路城などの城とは違う趣です。
その廊下を進んでいくと、窓越しに広い中庭が見え、向こう側の家老詰所の縁側にのんびりと座っている観光客が見えました。その建物へは渡り廊下を通っていきます。
家老詰所への廊下
建築当時の家老詰所は、本丸御殿の西の端にありました。庭に埋め込んだ丸瓦は、詰所方向に続く廊下の位置を示しています。(案内板より)
渡り廊下から新しくした屋根が見えます。新しい部分はまだ白いですが、だんだんと他の色となじんでくるとのこと。
家老詰所にいくといくつかに区切られた部屋があり、日本家屋の落ち着いた雰囲気がとても素敵。
家老詰所
家老詰所は、藩の政治を取り仕切った家老たちが常駐する場所です。建物内には他に年寄りや記録方の詰所も設けられ、本丸御殿の中でも重要な役割を果たしていたと考えられます。
この建物は明治初期に解体され、福岡村(現ふじみ野市)の商家に移築されていましたが、昭和62年に川越城の遺構であることが確認されたため、現在の位置に移築・復元され、平成2年より公開されました。(案内板より)
その部屋のひとつに家老たちの人形が入り口からは見えない位置に展示されていてけっこうビックリします。
川越藩と江戸湾警備
江戸時代後期になると、外国船が日本近海にしばしば現れたため、幕府は沿岸警備を各藩に命じました。川越藩は相模国(現神奈川県)三浦半島に領地を持っていたため、相模国の沿岸警備を命じられました。
天保14年(1843)9月より嘉永6年(1853)、ペリーが浦賀に来航すると江戸湾周辺の警備が一層強化されました。川越藩は、新たに建設された品川台場に警備の変更を命じられます。第一・二・五台場を担当させられました。
ここでは、図面を真ん中にして台場の警備について、相談している家老達の様子を再現しています。警備に必要な経費や人馬の動員は、藩や村々にとって大きな負担となりました。(案内板より)
その部屋の向こうに縁側があるのですが、部屋の中から見るその光景は、なんとも絵になり昔懐かしいものを感じさせます。
また渡り廊下を通って出口に向かいます。廊下の区切りにある古い扉の金色の取っ手(?)や、最後に入った広い部屋の古びた松の絵の襖や展示された甲冑が美しい。
喧騒を抜けてちょっと一息つくにはいい場所でした。
童謡「通りゃんせ」の舞台になった三芳野神社
川越城本丸御殿を後にし、すぐ向かいにある三芳野神社へ。ここは、童謡「通りゃんせ」の舞台になったといわれているそうです。
三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社 付明暦二年の棟礼
平成時代のはじめ大同年間(806~810)の創建と伝え、三芳野十八郷の惣社として崇敬をあつめました。太田道灌は川越城にあたって当社を鎮守とし、江戸時代以降は徳川幕府直営の社として庇護を受けました。
寛永元年(1624)幕府の命をうけて川越城主酒井忠勝が奉行となり再興に着手、幕府棟梁鈴木近江守長次が造営にあたりました。その後、明暦二年(1656)川越城主松平伊豆守信綱が奉行となり、幕府棟梁木原義久が改修を加えました。社殿の屋根はこけら葺でしたが、弘化四年(1848)幕府棟梁甲良若狭により瓦葺に改められ、さらに大正十一年銅版葺に改められました。
三芳野神社社殿は本殿、幣殿、拝殿からなる権現造で、屋根はこけら葺形の銅版葺です。外部は朱漆塗を基調とし、内部は軸部を朱漆塗、建具と天井を黒漆塗とします。
本殿は正面三間、側面二間の入母屋造で、四周に縁と高欄をまわし、正面に木階をもうけ、前面は幣殿に接続します。身舎内部は内陣外陣に分割し、内陣正面の柱間三間に板唐戸、外陣正面は中央間に板唐戸、両脇間に蔀度を装置します。組物は出組で、幣殿に面した正面だけ出三斗とします。中備は極彩色をほどこした蟇股です。
幣殿は正面一間、側面二間の両下造で、背面は本殿、前面は拝殿に接続します。組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束になっています。内部は拭板敷に小組格天井です。
拝殿は正面三間、側面二間の入母屋造で、背面は幣殿に接続します。三方に縁高欄をまわし、背面柱筋に脇障子をたて、正面に一間の向拝をもうけます。組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束です。内部は拭板敷に小組格天井です。向拝は大面を取った角柱を陸梁形の頭貫でつないで、両端に獅子鼻を付け、連三斗を組んで中備に蟇股を飾ります。裏側には花木を篭彫した手挟を飾ります。
三芳野神社社殿の造営経過はいささか複雑です。
寛永元年(1624)の造営は、慶安二年(1649)松平信綱が奉納した「三芳野天神縁起絵巻」に詳細に記されていますが、そこに描かれた社殿は、流造の本殿と入母屋造の拝殿のみで幣殿は存在せず、現在殿とは大きく異なっています。
平成元年から平成四年にかけて実施された解体修理の報告書『三芳野神社社殿修理工事報告書』によれば、蟇股と各部取合わせを調査した結果、本殿・幣殿・拝殿の計二十三面の蟇股はすべて同形式ですが、当初からのものではなく、正面より押込み、斜め釘打ちで羽目板に取り付けられた後補の蟇股であることが判明しました。また、痕跡から、拝殿には寛永元年の造立当初より蟇股が存在していましたが(ただし現在の蟇股とは異なる)、本殿は蟇股の無い建築であったことも明らかになりました。現在の蟇股は、社殿全体を同一体裁に整えるために、新たに作製し取り付けたものと考えられます。また、本殿と幣殿、幣殿と拝殿の取合わせでおさまりが不自然な所も数ヵ所指摘されています。
以上を勘案すれば、現社殿にみる権現造は、寛永建立当初からのものではなく、修造時に幣殿を増設して形成されたもので、さらに、寛永建立当初の本殿と、現本殿は本来別の建築と考えられます。
明暦二年の修造時には、江戸城二の丸東照宮が移築され、その幣殿と拝殿が三芳野神社の外宮(天神外宮)となり、明治五年に氷川神社境内(宮下町)に移され、八坂神社社殿として現存しています。確証はありませんが、現在の三芳野神社本殿は江戸城二の丸東照宮の本殿であり、明暦二年に移築され大改修を受け、幣殿を増設し、本殿と拝殿を連結して現在見るような権現造社殿となったと推定されます。
蛭子社本殿と大黒社本殿は、拝殿の前方、参道に面し向かい合って鎮座します。拝殿から見て左が蛭子社、右が大黒社です。両社は同寸法、同形式で、拝殿前に一対となって配置され社格を高めています。
朱塗の一間社流造、見世棚造で、屋根はこけら葺形の銅版葺とします。蛭子社本殿と大黒社本殿は、ほとんど装飾のない簡素な建築で、身舎組物は舟肘木で中備はなく、妻飾は虹梁豕扠首です。庇も柱上に舟肘木を置くだけで、いたって簡素なつくりになっています。明暦二年(1656)の「三芳野天神別当乗海覚書」に「末社両宇」とあるのが相当すると思われ、元禄十一年(1696)の「元禄十一年川越市街屋敷社寺記」に「末社貳ヶ所共 表四尺四寸 奥七尺九寸」とあって、規模が記されています。しかし、現本殿は正面四尺、側面は見舎と庇をあわせて六尺四寸五分であり、元禄の記録と一致しません。蛭子社に掲げられた額の背面に享保十九年(1734)の年紀があるので、その頃再建されたものと思われます。
昭和三十年十一月一日(平成四年三月十一日追加)指定 川越教育委員会(案内板より)
川越城本丸御殿のすぐ目の前にあるのに観光客もいなくてとても静か。お堂はちょっとくたびれた感はありますがとても重厚な佇まいで、そこからまっすぐ参道が延びています。
童謡「通りゃんせ」の舞台ということで、ちょっとその歌詞を思い出してみました。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
その意味を調べてみるとこんな内容らしい。(wikipediaより)
通りなさい、通りなさい。
ここは、どこの細道ですか?
天神様の細道ですよ。
ちょっと通して下さいませんか?
御用の無い者は、通しはしません。
この子の七つの御祝いに、御札を納めに参ります。
行きは良いですが、帰りは困難です。
困難ですが、
通りなさい、通りなさい。
さらに調べると、童謡などによくありがちな「隠された意味」なども諸説あったので興味のある方は検索してみるといいかも。そういえば子供のころ、近所の子たちとこの歌を歌いながら遊んだっけな~。
徳川家縁の川越大師 喜多院
三芳野神社の次は喜多院へ行ってみることにしました。道の要所要所に案内板があるので、住宅街の入り組んだ道でも迷わず着くことができます。
川越観光とはまったく関係ないですが、途中で、全車のナンバーが3の数字だけの幼稚園のバスを発見しました。なんだかいいものを見た感じ。
三芳野神社からはゆっくり歩いて15分ほどで到着。
川崎大師 喜多院(重要文化財)
伝説によるとその昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力により取り除き尊像を安置したというが、平安時代、天長7年(830)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名付けた。その後鎌倉時代、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(厄除元三大師)を勧請して官田五十石を寄せられ関東天台の中心となった。
正安3年(1301)御伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。更に室町時代、天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。江戸時代、慶長4年(1599)天海僧正(慈恵大師)が第27世の法統をつぐが、同16年(1611)11月徳川家康公が川越を訪れたとき寺領4万8千坪及び五百石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、四代家綱のとき東照宮に二百石を下すなど大いに寺勢をふるった。
寛永15年(1638)一月の川越大火で現存の山門を除き堂宇はすべて焼失した。そこで三代将軍家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書院等に当てた。家光誕生の間、春日局(家光公の乳母)の間があるのはそのためである。その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの建物を数年の間に再建し、それらが今日文化財として大切に保存されているのである。
江戸時代までは寺領四万八千坪、七百五十石の幕府の御朱印地として寺勢をふるったが、明治以降財力の欠如とその広さ、大きさのため荒廃に向かった。戦後文化財の指定とともに昭和大復興にとりかかり関係者の並々ならぬ努力によってその主な建造物の復元修理が完成し、それっら偉観は、盛時を偲ばせるまでになった。しかし未だ完成しないところもかずあり今日までその整備事業は継続して行われている。
現在の境内地は東照宮を含めて一万四千坪あり、今日その緑は市民にとって貴重な憩いの場となっており池や堀をめぐらした景勝はそこに点在する文化財群とともに川越随一の名勝地霊場地として名高く厄除元三大師のお参りとともに四季を通じて史跡を訪れる人々がいつも絶えない。
一月三日の厄除初大師のご縁日には家内安全、厄除等の護摩祈願、また境内には、名物だるま市が軒をつらねて立ち並び、又二月三日の節分会、四月の長日護摩講の行事をはじめ毎日護摩供を奉じて所願成就の祈願を厳修している。
文化財の拝観ができ、最近では毎年五月の連休の一週間宝物特別展も開かれている。(案内板より)
まずは立派な山門が出迎えてくれました。
山門 番所(重要文化財)
山門は四脚門、切妻造りで本瓦葺もとは後奈良天皇の「星野山」の勅額が掲げられていた。冠木の上の斗供に表には竜と虎、裏に唐獅子の彫ものがあるほか装飾らしい装飾もないが、全体の手法が手堅い重厚さをもっている。棟札も残っており、天海僧正が寛永9年(1632)に建立したもので同15年の大火を免れた喜多院では最古の建造物である。
山門の右側に接続して建っているのが番所で間口十尺(3.03m)、奥行二間半(4.55m)、紀屋根、瓦葺の小建築で徳川中期以降の手法によるもので、県内に残るただ一棟の遺構である。(案内板より)
境内はとても広く、観光客の他、地元の人たちも屋台エリアでくつろいだりしています。
奥に進んでいくと、右側に美しい塔が建っていました。
多宝塔
「星野山御建立記」によると、寛永十五年九月に着手して翌十六年(1639)に完成、番匠は平之内大隅守、大工棟梁は喜兵衛長左衛門だったことがわかる。この多宝塔はもと白山神社と日枝神社の間にあった。明治四十五年道路新設のため移築(慈恵堂脇)されたが、昭和四十七年より復元のため解体が行われて昭和五十年現在地に完成した。多宝塔は本瓦葺の三間多宝塔で下層は方形、上層は円形でその上に宝形造の屋根を置き、屋根の上に相輪をのせている。下層は廻縁を回らし、軒組物は出組を用いて四方に屋根を葺き、その上に漆喰塗の亀腹がある。この亀腹によって上層と下層の外観が無理なく統合されている。円形の上層に宝形造の屋根をのせているので組物は四手先を用いた複雑な架構となっているが、これも見事に調和している。相輪は塔の頂上の飾りで九輪の上には四葉、六葉、八葉、火焔付宝珠がのっている。この多宝塔は慶長年間の木割本「匠明」の著者が建てた貴重なる遺構で名塔に属している。(案内板より)
そして喜多院の本殿、慈恵堂でお参りし蝋燭を立ててきました。今年も良い年でありますように(もう4月だけど)。
慈恵堂の脇の小山へ登ると慈眼堂があります。
慈眼堂(重要文化財)
十月二日寛永寺において入寂し、慈眼大師の諡号をおくられた。そして三年後の正保二年(1645)には徳川家光の命によって御影堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置されたのが、この慈眼堂である。一名開山堂ともよび、桁行三間(5.45m)、梁間三間で、背面一間通庇付の単層宝形造、本瓦葺となっている。宝形造は、四方の隅棟が一ヵ所に集まっている屋根のことで、隅棟の会するところに露盤があり、その上に宝珠が飾られている。(案内板より)
小山をいったん下りて、葵庭園を通り過ぎると再び丘があり、その上にいくと東照宮です。
奥には行けないので、フェンス越しに覗くしかないのが残念。三つ葉葵の御紋があちらこちらで威厳を放っていました。
東照宮拝殿・幣殿(重要文化財)
拝殿は桁行三間(5.36m)、梁間(3.64m)で、単層入母屋造、正面は向拝一間(1.82m)あって銅板本葺である。幣殿は桁行二間、梁間一間で背面は入母屋造り、前面は拝殿に接続し、同じく銅板本葺である。内部も朱塗で美しく、正面に後水尾天皇の御染筆なる東照大権現の勅額が懸けてある。記録によると寛永十年(1633)十二月二十四日とあって、東照宮創建当時に下賜された貴重なものとされている。川越城主であった柳沢吉保や秋元但馬守喬朝の頃に大修復があったと伝えているが、松平大和守の弘化四年(1847)にも修復が行われたという。(案内板より)
石段を下りて入ってきた山門の方へ行くと重厚な鐘楼門がありました。鐘の窓の両脇に施された彫刻が素晴らしい。
鐘楼門 附銅鐘(重要文化財)
江戸時代の喜多院の寺域は現在よりも相当広く、当時鐘楼門は、喜多院境内のほぼ中央にあり、慈眼堂へ向かう参道の門と位置づけられます。また、上層にある銅鐘を撞いて時を報せ、僧達の日々の行動を導いたと考えられます。
鐘楼門は、桁行三間、梁行二間の入母屋造、本瓦葺で袴腰が付きます。下層は角柱で正面中央間に両開扉を設け、他の壁面は堅板張の目板打です。上層は四周に縁・高欄をまわし、角柱を内法長押、頭貫(木鼻付)、台輪でかため、組物に出三斗と平三斗を組みます。中備はありません。正面中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの雲竜の彫刻をかざり、背面も中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの花鳥の彫刻を飾ります。上層には、元禄十五年(1702)の刻銘がある椎名伊予藤原重休作の銅鐘を吊っています。寛永十五年(1638)の大火に焼け残ったともいわれますが、細部意匠などから判断して銅鐘銘にある元禄十五年頃の造営と考えるのが妥当だと考えられます。(案内板より)
他にも有料で拝観できる場所もあるのですが、今回は時間も遅くなってきたのでスルー。また機会があれば見学してみたいと思います。
喜多院の山門を出て、向いにある日枝神社に寄ってみました。本堂が建っているだけのこじんまりとした境内で、その脇に1500年前の仙波日枝神社古墳があります。
日枝神社本殿 付宮殿 一棟(重要文化財)
日枝神社は、慈覚大師円仁が無量寿寺(中院・喜多院)を中興する際に、近江国坂本(滋賀県大津市)の日吉社(日吉大社)を勧請したといいます。
本殿は朱塗の三間社流造で、銅板葺の屋根に千木、堅魚木を飾ります。三間社としては規模が小さく、梁構も簡素です。
身舎の組物は出三斗ですが、背面中央の柱二本は頭貫の上まで延び、組物は大斗肘木になっています。中備は置きません。妻飾は虹梁大瓶束であっさりとしています。縁を正面だけにもうけ、側面と背面にはまわさず、正面縁の両端のおさまりは縁板を切り落としただけの中途半端なもので、高欄や脇障子をもうけないため簡易な建築に見えます。庇は切面取の角柱を虹梁型頭貫でつないで両端に木鼻を付け、連三斗・出三斗を組んで中央間だけに中備蟇股を飾ります。ただし、この蟇股は弘化四年(1847)頃、修理工事の折に追加されたものといいます。身舎と庇のつなぎは、両端通りに繋虹梁を架け、中の二通りに手挟を置きます。
本殿の建立年代について、それを明確にする史料はありませんが、構造の主要部分っは近世初頭の技法によりながら、装飾意匠の一部に室町時代末期頃の様式をとどめ、また、中央の保守的伝統的な技法によらない地方的な技法も見うけられます。虹梁に絵様をほどこさず袖切・弓眉だけとする点、庇木鼻の形状と正円に近い渦の絵様、実肘木の絵様、手挟のおおまかな刳形、などは室町末期の様式です。
また、正面の縁のおさまり、大棟上に飾棟木をもうけず直接千木・堅魚木を載せる点、背面の組物だけを大斗肘木とする点、組物の枠肘木と実肘木が同じ断面寸法でかつ背と幅が同一な点、巻斗の配置が六支掛の垂木配置と関係なく決定されている点、などは地方的技法といえます。とくに枠肘木・実肘木の断面寸法、垂木割にかかわらない巻斗の配置は珍しく、幕府作事方に収監される中央の木割法とは異なる設計システムが存在したことを推測させます。
喜多院は慶長十七年(1612)頃に再興されており、日枝神社本殿もその一環として造営された可能性もありますが、それ以前に地方工匠の手によって建造された可能性も残されています。(案内板より)
薩摩芋スイーツ
その後、駅に向かって歩いていきます。途中、創業明治20年の和菓子屋さん「くらづくり本舗」で薩摩芋のお菓子などを買うと、店内でお茶のサービスと試食をいただくことができました。歩き回って疲れた体には甘いものが美味しい!御馳走様でした。
今回お土産に買ったのは人気の「スイートポテト べにあかくん」と「ぽくぽく」。どちらも美味しかったです。
一息つき、電車の時間に合わせて駅に戻りました。
川越めぐりは、見ごたえ、歩きごたえのある散策で、東京からちょっと足をのばして観光するにはいい場所だと思います。