コーカサス旅行記-#2
アゼルバイジャンのバクーから世界遺産シェキへ
アゼルバイジャンの首都バクーからシャマフを経由し、世界遺産のシェキの町へ。シェキはアゼルバイジャンの中でも最も美しいと言われる古都で、伝統的な赤レンガの建築がかわいらしい街並み。かつてこの地を治めていたハーンの住居「シェキハーン宮殿」を見学し、夕食には「王様のプロフ」と呼ばれる料理を堪能。宿泊は、山の中腹に建つ巨大な宮殿ホテルに泊まった。
3日目の主な訪問地:バクー~シャマフ~シェキ
行程
- 1~2日目:成田~ドーハ~バクー
- 3日目:バクー~シャマフ~シェキ
- 4日目:シェキ~(アゼルバイジャン)国境(ジョージア)~テラヴィ
- 5日目:テラヴィ~ムツヘタ~トビリシ
- 6日目:トビリシ~カズベキ~トビリシ
- 7日目:トビリシ~(ジョージア)国境(アルメニア)~ハフパト修道院~セヴァン湖~ツァフカゾール
- 8日目:ツァフカゾール~エレヴァン
- 9日目:エレヴァン
- 10日目:エレヴァン~ドーハ~羽田
コーカサス旅行3日目 バクー~シャマフ~シェキ
「INTOURIST HOTEL」の朝食
朝起きて外を見ると、今日もどんより曇り空。カスピ海がくすんで見えます。。。
テンションが下がる中、ホテルのレストランで朝食。
朝食メニューは品数も多く、見た目も綺麗。
焼いてもらったオムレツも、具材を卵に混ぜこんでるやつではなく、中に包み込むスタイルでちょっとオシャレです。
応対してくれたスタッフもキビキビと仕事をこなし、とても感じが良い。
バクーではおすすめのホテルです。
バクーのビューポイント「シャヒドゥラール広場・殉教者の小道」
8時ホテル出発。
今日は325キロ移動し、シェキの町まで行きますが、その前に1934年にできたバクーのビューポイント「シャヒドゥラール広場・殉教者の小道」に立ち寄ります。
=====ガイド=====
ここは、ゴルバチョフが統治していたソ連時代末期の1990年1月20日(黒い1月事件)におきたソ連赤軍の侵攻や、アルメニアとの戦争で亡くなった一般人、第一次世界大戦でアゼルバイジャンと戦ったトルコ兵1130人を含む、15000人が埋葬されている場所。慰霊碑などがある。
また公園になっていて、カスピ海やバクーの町を一望でき、2012年にできたバクーのシンボルのフレームタワー(約190mで38階建て)もよく見える。フレームタワーは3つの炎を表現している。
国会議事堂も近くにあり、125人いる国会議員のうち、31%は女性。
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=====ガイド=====
下に見える道はペルシャ方面に続く道で、歴史的にとても重要なもの。
紀元前4世紀にダライオス三世を追ってアレクサンダー大王がやってきたり、オマーンなどのアラビアからイスラム教を伝えに来た人や、チンギスハーンもこの道を通った。シルクロードの南ルートの一部でもある。
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バクーで一番高い丘ということで見晴らしがとてもよく、晴れていれば真っ青なカスピ海が見られたと思います。
ただこの日は、天気が悪く風が強かったので、かなり寒い。防寒は必須でした。
=====ガイド=====
黒い1月事件について
アゼルバイジャンの中にアルメニア人がたくさん暮らしている「ナゴルノ・カラバフ」という未確定地域(自治区)があり、その領土問題で両国がもめていた。
一応1994年には停戦という形になっているが、現在に至るまでにも幾度も武力衝突が起こり、アゼルバイジャン西南部は紛争地帯になっている。
停戦までには約2万人が犠牲になり、100万人以上が難民になったとされ、アゼルバイジャン国内には未だ80万人の難民が暮らしている。
そのもめごとの背景にあるのが、1990年1月に起きた「黒い1月事件」。
※「黒い1月事件」の名前の由来は、「ナゴルノ・カラバフ」にある。ナゴルノは「山岳」、カラバフは「黒い庭」という意味。黒い庭と言われる所以は、肥沃な土壌と黒く見えるほど豊かな森林があるため。
その当時、両国では「ナゴルノ・カラバフ紛争」が進行中だった。ゴルバチョフは、アゼルバイジャンがアルメニアに攻撃されているとして、1月19日に非常事態宣言をバクーに発令。
そして、ソ連の特殊部隊が19時15分に中央テレビやラジオ、電話などの通信網を破壊し、約26000人のソ連軍がバクーに侵攻。一般人を無差別に殺傷したとされる。対外的には、内部にたくさんいた過激派の勢力を抑えるため国家当局が介入し、市民を保護したと言っている。
非常事態宣言は4ヵ月ほど続き、その間には女性子供関係なく動くものはみんな撃たれ亡くなった。家の中にいても、カーテンに人の影がうつっただけで撃たれたらしい。そして、多くの遺体はブルドーザーで回収され、カスピ海に放置されたといった証言もある。
書籍では147名の死者とあるが、ガイドの説明では168名ほどと言っていた。しかし行方不明者もたくさんいて、本当の死者数は200名とも300名とも言われている。
事件後、40日間市民は喪に服し、その後も毎年追悼の儀が行われている。
なぜこのような事件が起きたのかというと、当時はソ連の一部とされていた国がたくさんあり、それに反対する勢力があちこちに存在していた。そのため、反逆するとこのような目にあうという見せしめと言われている。
最終的には、この事件について謝罪がされた。
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=====ガイド=====
カスピ海問題について
アゼルバイジャンの面積は北海道と同じくらいで、カスピ海は日本と同じくらいある。
カスピ海では、原油と天然ガスが採取でき、カスピ海を海とするか湖とするかで沿岸諸国(5ヵ国)の法的な権利が変わってくる。
もし湖なら、そこにある資源は沿岸諸国共有のものとなり、海ならその沿岸の国のものとなる。
ソ連時代には、カスピ海はソ連とイランの二か国の所有だった。当時ソ連には開発技術がなく、どのような資源が眠っているかの予測はできたがよくはわかっていなかった。そのため、湖として認識していても問題なかった。
しかし、1991年にソ連が崩壊し、カスピ海沿岸がロシア、カザフスタン、アゼルバイジャン、トルクメニスタン、イランの5ヵ国になり、カザフスタン、アゼルバイジャン、トルクメニスタンは自分で海洋調査を実施。すると、沿岸に油田があることがわかったため、海だと主張するようになった。
ロシアとイランは資源がみつからなかったり、調査ができなかったりしたため、湖だと主張していたが、1998年にロシア沿岸で油田が発見され、ロシアはやっぱり海だと言い始めた。
そのため、現在「湖」と主張しているのはイランのみとなっている。
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島国の日本でも近隣諸国との問題がありますが、それが地続きだとさらに深刻になりやすいと、これまで訪問した国の人が言っていたのを思い出しました。
岩山に造られたデリババ廟
バクーを離れてシャマフへ向かいます。
まずは、岩山に造られたデリババ廟の見学。
周りには何もない岩場の中腹辺りに、まるで岩に張り付くように建っています。
=====ガイド=====
シャマフは、シルヴァン・シャー王朝の都(8~15世紀)が置かれていた場所で、シルクロード上の交易の町。
記録されているだけでも11回の大きな地震に見舞われた。シルヴァン・シャー王朝もバクーに遷都するが、それ以降も地方の経済の重要拠点だった。19世紀から石油が見つかり、交通手段の変化により、現在の人口は約5万人。絨毯とワインの名産地。
デリババ廟の「デリババ」は「生きているおじいさん」という意味で、彼を慕う人々が死を受け入れられずにこのように呼んだが、本当の名前は、Sheikh Mohammad。
1402年没のナクシバンディ教団のイスラム聖者の墓がある。ソ連時代には階段が破壊され、上がることができなかった。今でも信者がお参りに来る。
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石段を上って中へ入ると、すぐ左側に、恐らくここを管理している人や参拝者のための部屋があり、さらに上に続く階段がありました。
上階に出ると広いドームになっていて、その奥にお墓があります。
そのドームから、岩山の上に出る階段がありましたが、この日は雨水がたまっていて危険ということでここまで。
廟の入り口から見た周りの景色はこんな感じです。
ジュマモスク(金曜のモスク)
次はシャマフの町にあるジュマモスク(金曜のモスク)へ。
女性は頭にスカーフを巻いて中に入ります。
=====ガイド=====
ジュマモスクは、743年に建設されたモスクで、コーカサスで2番目に古い。
1859年と1902年の地震でかなりのダメージを受け、さらに、1918年アルメニア人によって火をつけられた。
現在のモスクは、2010年から3年かけて再建されたもので、コーカサス地方で最大規模のモスクとなり、約4000人を収容できる。
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女子受けしそうなパステル調の細かな装飾がとても美しい。
床に敷いてある絨毯の模様は、お祈りをする人の一人分のスペースがわかるようになっているそうです。
農家で手作りバターとヨーグルトの試食
ジュマモスクを後にし、農家のアイラさん宅に訪問。
手作りのバターやヨーグルトを試食させてもらいます。
バターは、牛乳の入った大きなツボを横に倒し、それをゆさゆさ揺らして作ります。
およそ2キロの牛乳から150gのバターができるそう。
ヨーグルトはプレーンでも食べますが、キュウリやディル、塩、卵を入れたアイランというドリンクにして飲むタイプもあります。
最後は、バターをクタブにたっぷりぬっていただきます。
ほんのり甘いクタブとよくあい、シンプルだけどとてもおいしい。ランチの前だけどたくさん食べてしまいました。
墓石が立ち並ぶ7つのドームの墓
おやつを食べたあとは、シェマフの丘の上にある7つのドームのお墓へ。
このお墓は、12世紀から17世紀にかけて造られたシルヴァン・シャー王朝時代のもの。
現在は、かつてのアルメニアの侵攻や地震により破壊され3つしか残っていません。
ドームの周りにもたくさんの墓石がありますが、地震の影響で傾いています。墓石に描かれている文字はアラビア語で、当時イスラムに支配されていたのがわかる。
ドームの中にも墓石があり、鮮やかな色が残っているものもあります。
アゼルバイジャン式の鉄板焼きランチ
バスで30分ほど移動し、見晴らしの良い丘にあるレストランでランチ。
入り口のところには、果物から作られたうちわのような「ラヴァシャナ」がぶらさがっていました。
他にも、手作りと思われるピクルスやジャムなども売られています。
レストランの敷地には小屋がいくつも建っていて、そのうちのひとつを貸し切りで利用。
今日のランチのメインは、サージと呼ばれる鉄板焼きです。
丸い鉄鍋の下に炭を置き食材を焼く仕組み。
シンプルですが、お肉も野菜もジューシーで日本人好みの味でした。
この鉄板、サイズ的にもコンパクトだし、日本でも売れるんじゃないかな。
食後の紅茶は甘いジャムがお茶請け。
野菜や果物がまるごと置かれていて、勝手に切って食べてというスタイルがなんともワイルドですが、その分新鮮さが保たれていて美味しかったです。
世界遺産のシェキの歴史地区とシェキ・ハーン宮殿
ランチのあとは、アゼルバイジャンの中でも美しいと言われる古都シェキの町へ一直線。
シェキの歴史地区とシェキ・ハーン宮殿は世界遺産にも登録されています。
=====ガイド=====
シェキはバクーから約325kmで、ここからジョージアの国境まで470kmある。
アゼルバイジャンにある州の中でシェキは一番大きく、5000年の歴史がある町。82の村185000人がいて、100%がアゼルバイジャンの人。
チェキというトルコ系の部族が最初にやってきて、その名前からシェキという町の名前になった。
シルクロードの要所として、桑の木がたくさんある。特にソ連時代、この町は最大の絹の生産地だった。当時、10万人の人口のうち12000人がシルク産業の携わっていた。現在はソ連時代の生産所は占めているが、個人でやっている人がいる。
赤レンガの建物がシェキの伝統的な建築で、18世紀のキャラバンサライが今も残り、宿泊施設とお土産屋となっている。
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赤レンガのかわいい街並みを見ながら、まずは世界遺産のシェキ・ハーン宮殿へ。
通常、大きなバスは坂の下の駐車場までしか行けないそうですが、今回は特別に宮殿に近い上の方まで行ってくれました。
=====ガイド=====
シェキ・ハーン宮殿は世界遺産に登録されている。
1762年に建てられ、シェキ・ハーン(統治者)が暮らしていた。
ペルシャのシラーズ(東洋のベニスといわれる町)から職人を呼び寄せて8年の歳月をかけて建てた。
すべて自然の染料で色づけしてある。二階建てで5つの部屋があり、広さは300平方メートル。
ハーンが、イスラムの天国(パラダイス)をイメージしたものをリクエストしたため、天国のモチーフとして、クジャクやザクロ、バラ、ガゼルなどデザインされている。
宮殿のまわりの城壁は、イランなどからの攻撃を防ぐため18世紀に造られた。
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建物の内部を見学していきますが、残念ながら撮影は禁止。
ガイドさんの説明のみでご紹介していきます。
=====ガイド=====
漆喰を塗って天然染料で色付けをした。一番の見どころはステンドグラスで、シェキの芸術家によって作られた。接着剤は使われておらず、きちんとはまるように設計されているため落ちない。
創建当時のはベネチアングラスで、今はロシアのもので修復されている。
染料は、玉ねぎの皮やクルミの殻、サフラン、タラドンなどから作っている。
ザクロ、ナイチンゲール(夜泣き鳥)、花がパラダイスの重要なアイテム。
息子が住んでいた部屋は、王家の色のインディゴが使われている。赤いザクロの色はイスラムの世界で発展していった色。
ペルシャやロシアなどとアゼルバイジャンの戦いの様子が描かれていて、400人の顔があるがふたつとして同じ顔はない。
絶大な力を持っていたチンギスハーンや、アゼルバイジャンの歴史も描かれている。
ハーンの奥さんが住んでいた部屋。彼女は詩人でもあったので、詩人の友人たちとここで会っていた。
ここは女性的なデザインで、自然の世界が描かれている。動物の王者のライオンは、弱肉強食が表現され、ライオンの顔が女性になっているのは、力があれば女性でも王になれることを表している。
4つのコーナーにガゼルが二頭ずついる。イスラムの世界では8は重要な数字で、天国に行ける8つの扉があると信じられている。
ガゼルはその扉の前で番人をして、悪人を中に入れないようにしている。また、ガゼルは美のシンボルで、オリエンタルの世界(中央アジアやイラン、トルコなど)では、美を例えるときに「ガゼルのように美しい」と言う。そのため、ジェイランというのはガゼルという意味だが、娘の名前に付けられることが多い。
イスラムの世界では、美しさのシンボルはラクダになっている。
1802年ロシアに占領され、そのときシェキ・ハーンも殺された。すばらしいカーペットもたくさんあったが全部取られ、今はどこにあるかわからない。
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部屋の装飾は本当に美しく、壁から天井から所狭しとカラフルな絵が描かれています。
ステンドグラスも見事で、ちょうど夕日が差し込む時間帯だったのですが、ステンドグラスを通った光が床や壁に映りとても綺麗でした。
コーカサスのレトロがつまったシェキの博物館
天国の宮殿を見学した後は、城壁内にある博物館へ。
ここには、シェキをはじめ、コーカサスの動植物や、生活道具、民族衣装、著名人の写真など、さまざまなジャンルのものが展示されています。
最後にはお土産屋さんもあり、主にシルク製品を買うことができます。
ハルワという名物のお菓子の試食もありました。
王様のプロフの夕食
最後は、民族音楽を聴きながらの夕食です。
メニューは、何かのお祝いのときなどに出るシャカプロフ(王様のプロフ)という料理がメイン。
ドライフルーツなどが入ったピラフをパイで包んで焼き上げたものなのですが、その巨大さにみんな大盛り上がり。
解体された姿は、添乗員さんは「お花が咲いた♪」と可愛く表現されていましたが、私が思い浮かべたのは映画に出てくるエイリアン(が口を開けたところ)。
味的には、普通のプロフと変わりないですが、その見た目のインパクトと解体されていく様が面白いので一度試してみてほしい料理です。
民俗音楽は、先ほど訪れた博物館に展示されていた楽器も使った演奏で、それに合わせて歌も披露されました。
日常生活の様子が歌われることが多いので、歌詞がわかったらもっとこの土地のことが理解できるのになぁ。
シェキの宮殿ホテル「SHAKI PALACE HOTEL」に宿泊
今日のホテルは王族つながりで、その名も「SHAKI PALACE HOTEL」に宿泊。
赤レンガのクラシックな外観で、この周辺でもかなり存在感のある建物です。
今日はもう暗いので、ホテルの探検は明日にして部屋に直行。(外観とロビーの写真は翌日撮影したもの)
私の部屋はいったん外に出た別館で、かなり広いスペースでした。
狭いよりはいいですが、あまり空間があるのもちょっと落ち着かない感じ。
明日の朝は早起きしてこの辺りを散策するつもりなので、シャワーを浴びてすぐにベッドに入りました。