主な訪問地:ビシュケク~アラ・アルチャ自然公園~トクマク~チョン・ケミン渓谷
ビシュケク郊外のアラ・アルチャ自然公園でハイキングし、ピラフセンターでプロフのランチ。シルクロードを通ってトクマクにある世界遺産のブラナの塔と石人、そして玄奘三蔵も立ち寄ったアクベシムを見学。ブラナの塔では真っ暗な塔の中をのぼり天山山脈が連なる絶景を堪能した。夜はチョンケミン渓谷のゲストハウスに宿泊。
朝起きると今日もいい天気。
ホテルの部屋からは綺麗な天山山脈が見えました。
朝食を済ませ、8時30分ホテル出発。
まずは今日の行程を添乗員さんから。
=====ガイド=====
これからアラ・アルチャ自然公園へ行って往復2時間くらいのハイキング。その後ビシュケク市内に戻りランチ。
午後はちょっと想像力が必要なアクベシム遺跡、ブラナの塔と石人を見学した後ホテルに行く。順調に行けば、19時くらいに到着。
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アラ・アルチャ自然公園までは30~40分くらいかかるので、その時間を利用してビシュケクの歴史や民族の差別についてのガイドがありました。
=====ガイド=====
#添乗員
ビシュケクの歴史について。
ビシュケクは天山山脈のキャラバンの停泊地としてソクド人というイラン系の商人によって最初の街が造られたと考えられている。15~19世紀くらいにキルギス人がやってきて、1825年にウズベク系のコーカンド・ハン国がこの地に要塞を築いた。その後、1845年にロシア帝国が進出してきてコーカンド・ハン国との争いの後、1862年にロシアに編入されることになった。そのときビシュテク(ビシュケクではなく)と名付けられた。
1926年ソ連内の自治共和国としてキルギス自治ソビエト社会主義共和国というものが誕生し、そのときフルンゼという名前になった。フルンゼというのは、ロシア革命時のビシュテク生まれの司令官に因んでつけられた。
フルンゼという名前は今ではあまり残っていないが、マナス空港の空港コードがFRUになっている。
1991年2月にビシュケクに改名された。
#ガイド
ビシュケクは独立してから人が集まることが多くなった。独立までは人口は80万人だったが独立後は100万人。特に南からの人が多い。80以上の民族が住んでいる。
高校を出てからビシュケクに来る若者も多いが、しばしば差別することがある。例えば、北から来た人と南から来た人はお互いに違和感を感じている場合が多い。大学内でも北と南で別々にグループを作り、あまり仲良くならない。
南ではイスラム教は北よりも強く守られていて、北の人については、すごく遅れている人、ロシアっぽくなっている人と思っている。
南のオシュなどに観光とかで行くと、服の恰好や顔で出身地がわかってしまうので、「あなたは遅れている土地から来ましたか」と声を掛けられることがある。
しかしここでは逆に、もっと北の方のイシク・クルの方とかでは、ウズベク系が多いオシュの人にウズベクとの関係などを持ち出して「あなたたちもキルギス人じゃないですね」と言ってしまう。
大学で6年間勉強しているときに感じたことは、このように違う地方に住んでいても同じ民族の代表だから、特に外国に行くときなどは、出身地で差別するのはやめてほしいと思うようになった。今の若者、特に大学や外国で勉強している人たちによって、このような声がインターネットなどにも投稿されている。
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どこの国・・というか、もっと小さい単位でも差別というのはありますからね。
私個人の考えでは、人間がいる限り、この先も地球から差別がなくなる可能性は少ないと思いますが(悲しいけど)、そのことが理由で無益な争いが増えないといいなと思います。
アラ・アルチャ自然公園に近づくと、車窓には雲一つかからない山並みが見えてきました。
=====ガイド=====
アラ・アルチャ自然公園は1976年につくられた。だいたい14900ヘクタールある。ビシュケクの標高は750m~900mだが、アラ・アルチャの入口は1200mでそこから登っていくと4200mまである。
アラ・アルチャ自然公園は土日は遊びに行く人が多く人気スポットになっている。動植物に恵まれていて、植物は800種以上、160種の鳥、170種の動物。例えば植物の中ではカバの木、ポプラ、柳の森が盛ん。鳥や動物はハゲワシ、ワシ、猪、熊、ユキヒョウ、山ウズラが有名。
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ゲートを抜けてさらに進むといよいよ山が間近に迫ってきました。
山間には水量が豊富な川が流れ、道の脇には色とりどりの花が咲いています。
10分ちょっと走ったところの駐車場で下車。
ヒンヤリと涼しい空気が山の中に来たという気分にさせてくれます。
ここからゆるやかな坂をゆっくりと登っていきますが、道もほとんどが舗装されているので歩きやすい。
途中、隙間のある橋を渡ってみたり、高山植物を観察してみたり、快晴の中の気持ちの良い山歩きです。
ただ、この辺りは期待していたほど花が咲いてなくて(むしろここに来るまでの間の方がたくさん咲いていた)、若干肩透かしをくらった感はありました。
このハイキングの折り返し地点まで来ると、川と山並みとそこからチラッと除く雪山がなかなかなの絶景。
ここでしばらく自由時間でしたが、みんなでやった撮影大会はかなり盛り上がりました。
帰りは、ハイキングにきた人たちとも出会いながら同じ道を下ってあっという間に駐車場に到着。
バスに乗って、花の綺麗なところで写真ストップをしながらビシュケク市内へ戻りました。
お昼ごはんは、ビシュケク市内にあるTSENTAR PLOVA(ピラフセンターという意味)。
お店の前の道路はシルクロードで、今も交通量は多いですが、当時は道の両側に露店などが並び賑わっていたそうです。
店内は中央アジアっぽい内装で、団体さんがいくつかきても大丈夫なくらい広い。
それが理由かどうかわかりませんが、カザフスタンに到着したとき一緒だった他の日本人ツアーの人たちもいました。
今回のメニューは、ショルポ(キルギス風の牛肉とじゃがいものスープ)、サラダ、プロフ(中央アジア名物のピラフ)、パン。
さすがにピラフセンターということでとっても美味しい。
大きなお皿に山盛りのプロフには、お肉やにんにくもゴロッと入っているのでスタミナ満点です。
ちょっと脂っぽいプロフに、さっぱりとしたトマトサラダが何気に人気でした。
ランチで一息ついたあとは、さきほどのシルクロードを通ってトクマクへ向かいます。
三蔵法師で有名な玄奘三蔵と所縁のある場所ということで説明がありました。
=====ガイド=====
三蔵法師と呼ばれているが、一人しかいないわけではなくたくさんいた。三蔵法師というのはもともとの意味はお釈迦様の教えの「経」、「律」、その両方を研究した「論」の三つを極めた人のことを三蔵といった。しかし、一番有名な人が玄奘三蔵だったので三蔵法師と言えば玄奘三蔵となっている。
玄奘三蔵は602年くらいに今の河南省で生まれた。10歳の時に父親が亡くなり、その翌年、上から二番目の兄が洛陽のお寺に出家するということでそこに行った。13歳のときに、優秀な人しか選ばれない僧となり、25~26才ころまで仏法や高僧の教えを求めて中国各地を巡っていた。
618年18歳の時に、兄と一緒に長安に移るが随の末期だったので戦争などがあり、とても勉強をする環境ではなかった。そのため翌年、成都に移った。
各地を周り話を聞いているうちに、いろいろ疑問を抱いて、どうしようかと思った際、仏教の大元の天竺(今のインド)へ行って経典の原典を見れば疑問も晴れると思い行くことにした。
ただ当時、唐は鎖国状態で国外に出ることは禁止されていたため、627年か629年と言われているが、国禁を犯しなんとか国外に出た(状況からみると627年の方が正しいとされる)。
長安を出た玄奘三蔵は、まず蘭州の方へ行きその後武威で1ヶ月ほど滞在して仏教の講義を行った。そしてハミなどに行き、本来は天山山脈の北から周ってトクマクへ向かう予定だったが、高昌国(今のトルファン)の王様に立ち寄るように言われ予定を変更しそちらを訪れた。王様は玄奘三蔵をとても気に入り、なんとか残ってくれないかとお願いしたが、玄奘三蔵は天竺へ行くのが目的だったので、帰りに寄ると約束し出発した。
このとき、玄奘三蔵は王様から、この辺りを支配している国の王様に宛てた紹介状をもらっている。
その後、天山山脈のベデル峠(標高4284m)を気候のいい時を選んで通ったが、高い高度だったので大変だった。当時の記録では、一行は7日間の山旅のあとようやく山道を出ることができたが、一行のうち闘病死した人が10人のうち3~4人もあり、牛馬はそれ以上倒れたとあり、かなり過酷な道のりだったのがわかる。
そして、今のトクマクの砕葉城(スイアーブ)にたどり着いた。ここで西突厥の王様に会い、その後訪れる国の紹介状や通訳などを整えてもらった。これがとても大事なことで、当時はいろいろな国が入り乱れていたので、この紹介状などがあることにより安全な旅を行うことができた。
なんとか天竺にたどり着き、645年に仏舎利や仏像、多くの経典をもらって長安に戻ってきた。
国禁を破って出国した玄奘三蔵だったが、その評判を聞いた唐の太宗皇帝は、国境近くまで使者を送り大歓迎で迎えた。
さらに玄奘三蔵は皇帝から気に入られ、祭りごとにも参加するように言われたが、本来の仕事である仏典の翻訳をさせてほしいと頼み、死ぬ間際までそれに専念した。
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玄奘三蔵の話は他の地域に旅行に行った時も何度も出来てきましたが、その度にここを歩いて通って行ったのかと驚かされます。
今回の説明に出てきた新彊ウイグル自治区のトルファンにも行きましたが、とても暑くて荒涼とした地域で、車で移動しながらの旅行でも結構体力が奪われる場所でした。
本当に過酷な旅だったと思います。
トクマクの街に入るとやがて道の向こうに塔が見えてきました。
世界遺産ブラナの塔に到着です。
昨日の博物館でも見ましたが、バスを降りるとき、今一度当時の想像図を確認。
=====ガイド=====
2014年にアクベシムとともに「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」として世界遺産に登録されている。
10~11世紀に建てられたミナレット。その歴史は10世紀から始まりベラサグンという場所だったが、ミナレットを建てたところを王国の都のひとつとすることになりとても栄えた。シルクロードのときも、東から西へのキャラバンの通り道としてにぎわった。
ブラナの塔は現在25mだが、当時は41mあったと言われている。博物館には想像図があったが、上の方は地震で崩れてしまったので、いろいろな資料などから推測しこのようなものとされている。
今のところミナレットだと言われているが、そこもまだよくわっていない。
ブラナの伝説はいくつかあるがそのひとつを紹介。
その昔、王様は国の優秀な占い師を集めて、大好きな娘の将来を占った。
占い師たちは怖がって、100歳まで生きて子供もたくさん生まれるなどと答えたが、その中で一人だけ、あなたの娘は16歳で黒い虫に刺されて死ぬと言った。王様はなんとか守りたいと思ってブラナ塔を建てた。そして娘が16歳になったとき王様はよろこんで、占い師の行ったことは嘘だったと思った。そして、娘の誕生日の時に美味しいものを食べさせようと思い、果物をお皿にいれて持って行ったが、そのぶどうの中に黒い虫がいて娘はそれに刺されて亡くなってしまった。
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入口の門を入って少しいくと草原が広がり、左手に塔、右手に博物館と石人があります。
塔は現在25mとのことですが、それでも下から眺めると圧迫感を感じるほどの高さで、これが41mだったらかなりの迫力があったと思います。
まずは小さな博物館へ(中は撮影禁止)。
館内には、ネストリウス派キリスト教の十字架、仏教寺院の柱の土台、ゾロアスター教の鳥葬後の納骨器などがあり、まさに文明の十字路を実感できます。
その後石人エリアへ向かうと、広い平らな草原にポコポコといろいろな顔形をした石人が立っていました。来た方向を振り向くと、ブラナの塔の全景が綺麗に見えます。
石に刻まれた顔はどれもユーモラスで同じものはひとつもないそう。
この石人は突厥の戦士のお墓といわれ右手に馬乳酒の杯、左手に剣を持っているものが多く、その他にも石臼や文字の書かれた石版などもありました。
ここからは自由行動になったので、ちょっと高台になっている丘に登ってブラナの塔へ行ってみることに。
周りに遮るものがないので、少し上るとすぐに視界が広がってきます。
青空に聳える塔と緑の草原、そして遠くに連なる天山山脈がなんとも言えず美しい。
ここをシルクロードを進むキャラバンがいくつも通っていったのでしょうね。
丘を下って、最後に塔の上に上ります。
途中まで外階段を上がり塔の中に入るのですが、内部の螺旋階段は人一人が通れるほどの幅しかないので、上りと下りが途中でぶつからないように声を掛けながら何人かとまとまって上るといいでしょう。
中の階段はかなり急で、ところどころに明り取りの窓はあるもののその周辺以外は真っ暗なのでヘッドライトがあるといいかも。
上まではほんの2~3分で到着。
ここからは、360度のパノラマが広がっていました。
さきほどの丘の上よりも当然遠くまで見渡せるのですが、個人的にはこの塔が入った風景の方がいいな。
でも実際に登らないとそういう比較もできないので、訪れた際はぜひ登頂してください。
さて、上ったら下りないといけないのですが、これがなかなか怖かった。
上から見るとほとんど垂直に見える暗闇の中の階段を下りて行かないといけないので、足を踏み外したら恐らくけっこうな事故になる可能性がありそう。
怖い人は誰かの後ろから下りた方がいいと思います。(視界が遮られ下まで見なくてすむ)
最後に塔の周りをひと回りし、みんなで集合写真を撮ってバスに戻りました。
ブラナの塔のあとは、満開のヒマワリ畑を通り世界遺産アクベシムへ。
=====ガイド=====
アクベシムはトクマクの町の跡地。だいぶ前に滅びたため今は風化してほとんど何も残っていない。
アクベシム(当時はスイアーブ(砕葉城))ができたのは、5~6世紀。スイアーブというのは、「チュー川の隣に位置している町」という意味だが、実際は川は流れていない。しかし、昔はチュー川の隣まで広がっていたのではないかと言っている科学者もいる。
6世紀には西突厥という国ができて、スイアーブには突厥とイラン系ソグド人が仲良く住んでいた。いろいろな物が売られとても栄えていて、入るのには今でいうビザが必要で高いお金を払わなければならなかった。
627年、玄奘三蔵が中国領から通った時、西突厥の王様はとても気に入ってここに住みなさいと提案した。さらに、ここを通るときのビザも必要ないのでいつでも好きな時に来てくださいと言った。
玄奘三蔵がイシククルからこの町を通ってインドへ行ったということは、この地域では大きな役割を果たした。なぜかというと、玄奘三蔵によって仏教が教えられたから。
昨日行った博物館に展示されていた資料で想像はできたと思うが、当時は、仏教の寺、教会、モスクもあった。でも今はほとんど何もないので想像力が必要。
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バスを下りる前に再び当時の様子を確認しその姿を心に刻みます。
強烈な太陽の日差しを受けながら、一見したところなんにもない荒野を歩いていきます。
さらにあぜ道のようなところを進んでいきますが、やっぱりなんにも見えません。
そして、そのあぜ道を少し下り地面に凸凹のあるところへやってくると、ここがアクベシムとのこと。
私が持っているありったけの想像力を総動員してみましたが、この場所に、先ほど見た当時の建物を思い浮かべるのは難しい・・。
さらに、遺跡を歩いているとポロポロと土が崩れるので、そのうちもっと何もなくなってしまうのではないかと心配になります。
ウズベキスタンのキジルクム砂漠にあるトプラクカラも似たような感じで「え~」と思ったのですが、あっちのほうがまだ人工的な建造物の跡が感じられた遺跡だったな~とふと思い出しました。
このあと、ホテルのあるチョンケミン渓谷へ向かいます。だいたい1時間半くらい。
トクマクの景色を眺めながら、世界遺産のブラナの塔があるベラサグンとスイアーブについて簡単に復習。
=====ガイド=====
アクベシム(スイアーブ)は中国語で砕葉または素葉と書き、名前はチュー川に由来していると言われている。
もともとはシルクロードの3つの交易路として栄えたが、6世紀より前から町はあったとされている。その後突厥が都をかまえてから重要な都市になったが、679年唐によって占拠された。唐が衰退したあと、トルコ系の突騎施というものが占領し、西からくるイスラム勢力に対抗していた。そのあと遊牧民族のカルルクが台頭しベラサグンに機能が移り衰退してしまった。
そのベラサグンはどこかというとブラナの塔があったあたり。車で10分くらいの近い所だが、スイアーブの東の端の辺りとベラサグンの西のあたりがちょうど同じところにあったと言われている。
突厥とは、552年にジュウゼンという国の支配下から独立したトルコ系の遊牧民族。ジュウゼンというのがトルコ系かモンゴル系か定かではなく、初のトルコ系の国家とされている。突厥とはテュルクを中国語で書いたもの。
最初にササン朝ペルシアと協力してここにあったエフタルという国を滅ぼして、西はカスピ海、東はモンゴルの方と巨大な帝国になっていったが、広すぎたせいで583年、30年ばかりで国が東西に分裂した。そして主な都市としてスイアーブが栄えて玄奘三蔵も立ち寄った。そのころはヤブグカガン王が統治していたが一番の最盛期だった。
ベラサグンとスイアーブの地理だが、唐の地理学者によると、ベラサグンはスイアーブの東12キロ、イシク・クルの西20キロにあると記載されている。
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道中、果物の屋台があったので立ち寄り、添乗員さんがスイカとメロンを買ってくれました。
ここで売られているスイカやメロンは南から来たもので、ここで売っている人たちが一番安いビシュケクのオシュバザールなどで仕入れてきたもの。この辺りでは栽培していないそうです。
いろいろな種類があり値段も様々ですが、安いので220円(二つで)から、360円、高いので600円くらい。
今日か明日の食事の時に出してくれるというので楽しみです。
しばらく進むと山間に入り、ビシュケク方面とチョンケミン渓谷方面の分かれ道に差し掛かりました。
この道は「地獄の道」と言われ、開通するまでに何人もの犠牲者が出たそうです。
そこを過ぎるとだんだんと緑が増えてきました。
そろそろチョンケミン渓谷に到着です。
本日の宿は、Ashu Guest House(アッシュゲストハウス)。
その名の通りゲストハウスなので、街中のホテルとは違い民宿という感じです。
広い中庭に面した一棟をまるごと私たちのツアーで貸切。
各部屋には綺麗に掃除されたトイレとシャワーが完備されています。
鍵は内側からしかかかりませんが、それだけ安全だということでしょう。
シティーホテルのような設備ではありませんが、とても静かで居心地がよく、このツアーの中で泊まった宿の中でもかなり気に入りました。
夕食は別棟の二階でいただきます。
ダイニングルームにはぐるりと窓が設置され、外側にはテラス席もありました。
今夜のメニューは、じゃがいものスープ、サラダ、そば粉の煮たもの、鶏肉のハンバーグ、パン、スイカ。
料理も美味しかったのですが、一際手作りジャムが大好評で、私もパンにたっぷりつけていただきました。キルギスの人はこのジャムを風邪をひいたときにも食べるのだそうです。
ちなみにスイカは、途中で買ったものではなくもともとこちらにあったもの。
夕食のあと部屋に戻っていくと、ちょうど夕暮れ時で遠くの山々が赤く染まっていました。
なんだかすごく素敵な場所にやってきたかもしれない。
→次は、チョンケミン渓谷のフラワーハイキングとイシク・クル湖クルーズ