主な訪問地:イスタンブール~チャナッカレ~エデレミット(エーゲ海)
ヨーロッパサイドからチャナッカレ海峡を渡り、数々のギリシャ神話が生まれたアナトリア半島(アジアサイド)に入る。世界遺産トロイ遺跡では青銅器時代から始まる古代都市跡が広がり、修復されたトロイの木馬にも上ることができる。エーゲ海沿岸のエデレミットでは海が一望できるホテルに泊まり、夕暮れの美しい景色を堪能した。
6時半。
ホテルのレストランで朝食です。
はじっこの方に日本食コーナーがあったので食べてみました。
焼き鮭と焼き鳥、お新香、白米とお味噌汁。
お新香以外は日本のと少々違いましたが、こういうのを用意してくれる気遣いは嬉しいです。
外はどんよりと曇り空。
今日の予定は、イスタンブールからダーダネルス海峡を船で渡り、世界遺産のトロイを経てエーゲ海の港町エデレミットまでの行程です。
これから行くところについて添乗員さんから簡単なご案内。
=====ガイド=====
テキルダーで休憩をとるが、この町はラクで有名な場所。
ラクは40度くらいの強いお酒で、水を入れると白く濁る。
香りが強いので好き嫌いがあると思う。
最初のトイレ休憩はそこでするが、トルコのトイレはだいたい有料で1リラくらい。
入口に人がいるのでその人に払う。
細かいのがなくても5とか10リラならおつりをくれる。
トイレ休憩をするドライブインにはだいたいマーケットが併設されていて、お菓子なども買えるし、チャイなどが飲める場所もある。チャイはだいたい1リラくらい。
休憩後、2時間くらいかけてゲリボルという港町までいく。
そこからバスごとフェリーに乗り、対岸のアジアサイドのラプセキまで30分ほど。
12時の船に乗る予定。
そこからチャナッカレまで移動し、海に面しているツサンホテルで13時くらいにお昼ご飯。
その後、15分くらいでトロイに到着。
今日のメインの観光はトロイ遺跡になるが、今回見る遺跡の中でも一番古いものであまり残っていない。
トロイの木馬がある。
そこからホテルまで直行するが、ホテルに近づくとオリーブの畑がたくさん見えてくる。
トルコの中でもオリーブをたくさん作っているエリア。
トルコの移動は長いが、景色がすごく変わっていくので楽しめるでしょう。
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続いてハヤティーさん。
添乗員さんと内容がちょっとかぶりますが、時間が細かく案内されているので、これから行く人には参考になると思います。
=====ガイド=====
ちょうど今から1時間45分ほど走って9時半くらいにテキルダーでトイレ休憩。
その後また1時間45分移動してゲリボルまで行き、チャナッカレ海峡を渡る。
12時の船に乗って12時半にラプセキまで。
40分走って、だいたい13時15分くらいにお昼のレストランに到着。
今日のお昼はシーフードで、タラが出ると思う。
チャナッカレ海峡はタラとマグロが有名で、その周辺では白ワインも美味しい。
テキルダーはラクで有名だが、ラクは西洋よもぎから作られ水で割ると白くなり「ライオンのミルク」と呼ばれている。
トルコの人は夜に結構飲む。
ランチのあと20分ほど走ってトロイの遺跡へ。
そこで1時間くらい観光してから、ホテルまで1時間半くらい。遅くても17時半にはエデレミットのホテルに到着する。
ホテルはエーゲ海の目の前にあり大変綺麗な場所。
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トルコは渋滞が有名ですが、この日の朝もすごい渋滞でした。
それを見ながらハヤティーさんがぼやきます。
=====ガイド=====
トルコの人は車が大好き。
走っているのは日本車とドイツ車が多い。
地下鉄があってもみんな自分の車で移動する。
地下鉄は好きじゃない。自分も気持ち悪くなるから嫌い。
トヨタの世界で2番目に大きな工場はトルコのイズミットにある。
この町はトヨタの町になり、工場、学校、病院なんでもある。
最近建築ブームで郊外に団地がたくさんできている。
市内の家賃は高い。
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トルコは広いので移動が長い。
特にイスタンブールから先は長くなるので、その移動時間を利用していろいろなガイドをしてくれます。
私にとってはその国の基本情報から雑学、時にはガイドブックに載っていないようなことまで知ることができるので楽しみな時間でもあります。
=====ガイド=====
トルコの総面積は日本の2.5倍。でも人口は日本の半分で7300万人。
人口の三分の一は、トルコの三大都市に住んでいる。
イスタンブール、アンカラ、イズミール。
イスタンブールの人口は1800万人で、トルコの中で一番物価が高い街。
月給はだいたい17万円~25万円くらいだが、カッパドキアなら6~8万円くらい。
それほど違う。
例えば、日曜日の夜にみなさんとディナークルーズをやるが、その時、海峡の方には600件くらいの素晴らしい家が見えてくる。そういう家は、日本円で30億とか40億とかする豪華なもの。
場所によってかなりの差がある。
トルコの首都のアンカラの人口は420万人、イズミールは330万人。
基本的に西の方に人が多く、東の方は少ない。
トルコは、エーゲ海、黒海、地中海の3つの海に囲まれ、湾のようなマルマラ海がある。
マルマラ海はボスポラス海峡(33km)とチャナッカレ海峡(62km)に挟まれている。
黒海はなぜ「黒い海」と言われているか。
12~13世紀に、トルコ人は方向を言う時に色で言っていた。
そして黒海と地中海の名前は、方向で表す言葉で呼ばれていた。
トルコの北にはギリシャとブルガリアがあるが、今日これから行くホテルよりギリシャの方が近い。
今からバスで向かったらお昼の14時くらいには着く。
南にはシリアがありその境には、一番長い893キロの国境が続いている。
そして、イラク、イラン、アルメニア、グルジアも隣接している。
そのような地理関係のため、日本の周りは海だけど、トルコの周りは戦争。
そのため、トルコは世界三大軍隊のひとつを持っている。
51年にNATOにも加盟していてとても強い。
軍隊のことについてはアメリカ、トルコ、イスラエルと一緒にやっている。
トルコは国が徴兵制をとっていて、男性は34歳までに一度、1年半の兵役に行かなければならない。
もし行かなかったら国籍を無くす。
兵役に行くまで、パスポートは半年ごとに更新していく。一か月の兵役が終わると10年ごとになる。
訓練は大変厳しく、それについては世界一だと思う。
練習するときは本物の武器を使ってやっている。
今のトルコはすべてアタテュルク(ムスタファ・ケマル・パシャ)がつくったと言える。(パシャは偉い軍人という意味)
アタテュルクはトルコの初代大統領の愛称で「トルコ建国の父」という意味。
アタは父、テュルクはトルコ人。
日本ではトルコと言うが、トルコでは「テュルク」と言う。
1938年11月10日9時5分に、イスタンブールのドルマバフチェ宮殿で肝硬変のために57歳で亡くなった。
トルコの人にとって、預言者マホメットより彼の方が大事で尊敬されているため、これからいくどの町にも彼の銅像などがある。
トルコ人は愛国心がとても強く、学校ではこのように教わる。
国は一番、家族は二番、仕事は三番。
マルマラ海の南側にブルサという町がある。
1299年(日本では鎌倉時代)、オスマントルコ帝国がこのブルサで始まり最初の首都になった。
オスマントルコの前はサルジュークトルコで、首都はコンヤ。初めてトルコに来たトルコ人がそこを首都にした。
ブルサのあと、オスマントルコはヨーロッパに入り、エディルネという町を次の首都にした。
その後、15世紀にブルサの征服者メフメト2世はビザンチンに入り、イスタンブールがオスマントルコになる。
さらにそのあと、アタテゥルクが首都をイスタンブールからアンカラにした。
オスマントルコ時代にはスルタンが37代目までいた。
そのうちの21人が、昨日行ったトプカプ宮殿で生活していた。
それほど長く繁栄していたトルコだが、19世紀のオスマントルコ時代末期は国の崩壊だった。
そのころのオスマントルコは大変弱く、最後の王様は、自分とイスタンブールと宮殿のことだけ考えていた。
イギリスやフランスなどに対して「どうかイスタンブールだけは触らないでください。他はとってもいいから」と言っていた。
しかし、それに反対した人物が一人だけいた。それがアタテゥルク。
そのとき彼は軍人で、チャナッカレ海峡で王制を倒すことを決めた。
それに対し、イスタンブールで隠れていた最後のスルタン(ワディティーン)は、彼を見つけ死刑にしろという命令を周りに出していた。
そんな中、アタテュルクはスルタンに内緒で、周りの軍人と一緒にイスタンブールからサムスンという町に行き、そこにいた国民と会って相談した。その後さらに東に行きトルコの人たちたちと相談しながら、みんなで一緒にチャナッカレ海峡に向かった。
そのときアンザック軍(イギリス、フランス、ギリシャ、イタリア、オーストラリア)がトルコに入ってきていた。
そしてついに、1915年3月18日、アタテュルクたちはチャナッカレ海峡で戦争に入る。
この戦いで93万人が亡くなったがトルコが勝った。
アタテュルクは国民の30m前の位置で戦って英雄になった。
この戦争により「アタテュルク」の他に「チャナッカレ海峡のライオン」という愛称もついた。
戦争でトルコが勝つと、すぐにスルタンはイスタンブールから逃げ出してフランスのパリに行った。
一方アタテュルクはイスタンブールに行き、1923年10月29日、近代的な新しいトルコをつくり、次の日にはスルタン制度を廃止した。
その後、1928年11月、昔のアラビア文字を現在のトルコ文字に変えた。
一部の人からは反対があり、新聞とかはとりあえずアラビア文字を残そうと提案したが、彼はすべて明日から変えてくださいと言った。
さらに女性に選挙権を与えたが、それは日本より12年も早い。
一夫多妻制(オスマントルコ時代は4人まで奥さんが持てた)も廃止し、一夫一婦制を導入。
それから死ぬまでの15年間、トルコの初代大統領を務めた。
最近までスルタンの子孫はトルコに入れなかった。
今でもイギリスやフランスに暮らしている子孫がいるが、そういう国でトルコ人に会うと顔向けできない立場でいる。
もしアタテュルクがいなかったら、今のトルコはイランやイラクのような国になっていただろう。
トルコは政治と宗教を別にした。トルコ以外のイスラムの国は宗教の上に政治がのっかている。
トルコ人の故郷は中央アジアで、もともとはモンゴル系で日本人と一緒。
昔、モンゴルから一人は西へ一人は東へ向かったという話がある。
しかし今に至るまでにいろいろな血が混ざったから、例えばここに10人のトルコ人を呼んだらみんな違う顔をしている。
黒海の西海岸の方は、ゲルマン系とスラブ系が入っていて多くの人が金髪に碧眼、エーゲ海の方に行くとギリシャ系が入っていて、東の方にいくとアジア系。場所によってぜんぜん違う。
これから渡るチャナッカレ海峡の玄関口には、戦争のあとに建てられたモニュメントがあり、それにはアタテュルクが言った言葉が書いてある。
内に平和、外に平和
戦争は必要なときだけ
現在のトルコはこのチャナッカレで生まれた。
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なるほど。
確かに地図を良く見ると、トルコのまわりはかなりキャラの濃い国々が連なっていますね。
周りが海に囲まれている日本でさえ、近隣諸国のちょっかいが問題になるのだから、陸続きともなればそれは相当なものなのでしょう。
イスラム圏の国には他にも行きましたが、トルコはその中でも規律がかなりゆるい印象を受けました。
きっとそれは、アタテュルクがスルタン制を廃止し、近代的なトルコに向けて改革を始めたときから急速に変わっていったのではないかと勝手に想像しています。
イスラム教を信仰していると言っても、国や地域によってかなり差があることを実感しました。
そういう意味で、気楽な感じでイスラム圏を観光したい人にはうってつけの場所かもしれません。
ほどなく最初の休憩地、テキルダーに到着。
まわりには何もない小さなドライブインです。
トイレの入り口で1リラ支払い中へ入ると、さすが有料だけあって紙もちゃんとあり綺麗。
これならトイレが心配という人でも大丈夫でしょう。
その後、併設されているカフェでチャイを飲んでみました。
荒っぽい入れ方ですが熱々で美味しい。
曇って寒いくらいなのであったかい飲み物がありがたいです。
休憩後、さらに2時間弱走ってフェリー乗り場に到着。
バスごと乗り込み、船内で下車。
デッキに上がってみると、これから行く対岸がすでに見えていました。
景色が良く見える外にいましたがすごい風。
髪の毛をボサボサにされながらも短い時間だったので結局ずっとデッキにいました。
到着の少し前にバスに戻り、そのまま下船します。
=====ガイド=====
これから40分ほど走ってレストラン、その後トロイ遺跡を観光する。
遺跡の観光後1時間くらい走るとオリンポス山が見えてくる。
この山はギリシャ神話に出てくるが、ギリシャではなくトルコの西海岸にある。
みなさんが知っているギリシャ神話のほとんどが、トルコの西海岸で生まれた物語。
トロイの遺跡は別々の年代が9層になって重なっている。
一番下から5層までは今から5千年前の青銅器時代のもの。
トロイの町は、1671年(日本だと明治3年)に、ドイツ人のシュリーマンによって発見され発掘された。
彼は、イーリアスの伝説を読んで、ここまで宝石を探しに来た。
プリアモス大王の黄金の王冠や仮面などの素晴らしい宝石。
トルコと南アフリカだけで95%プラチナが採れたが、それを探していた。金より高い。
彼は2年間発掘して、1873年7月6日、プリアモスの財宝を無許可でギリシャ経由でドイツに持ち出した。
そのころはちょうどトルコの衰退期で、この辺りは羊飼いばかりだったため、誰も何も言わなかった。
そのため、彼のような人が世界中から来てトルコから好きなものを持って行った。
第二次世界大戦の後、それらの宝石はドイツからロシアに行ってしまった。
そのため、今ではロシアのモスクワにある歴史博物館に展示されている。
また、大英博物館にあるものの61%はトルコから持ち出したもの。残りはエジプトからのものもある。
シュリーマンが影響された「イーリアス」はホメロスが書いた。
彼は、紀元前8世紀にイズミールで生まれた。
木馬の話はイーリアスには載っておらず、「オデュッセイア」の伝説に載っている。
その伝説によると、プリアモス大王は、将来息子のペレが町を滅ぼすと聞いて森の妖精たちに預けた。
ちょうどそのころ、オリンポス山のひとつで結婚式をやっていた。
その結婚式には神様が集まっていたが、一人だけ呼ばれなかった神がいる。
それは女神エリスで、怒った彼女は結婚式にりんごを投げ込んだ。
その林檎には「カリステ(一番きれいな女性へ)」と書いてあった。
りんごは転がり、三人の女神たちの前で止まった。
その女神たちとは、アティーナ、ヴィーナス、ヘラでとても美しい女神だった。
彼女たちは、そのりんごをオリンポス山で一番偉いゼウスのもとへ持って行った。
そして誰が一番美人か決めてくださいと言った。
しかしゼウスは何も答えず、今では羊飼いをしているトロイの王子パリスに選ばせることにした。
女神たちは、それぞれ一人ずつパリスと話し、ひとつのことを提案した。
まずヘラは、もし林檎をくれたらアジアサイドの王にすると言った。
しかしパリスは、今はそういう生活を捨てて平和に暮らしているのでいらないと言った。
次にアティーナは、もし林檎をくれたら生涯、勝利と知恵を授けると言った。
これもいらないと断った。
最後にヴィーナスは、もし林檎をくれたら世界で一番美しい女性と結婚させようと言った。
パリスはこれを受け林檎をヴィーナスに渡した。
この世界で一番美しい女性というのは、ギリシャの皇帝メネラオスの妃ヘレナだった。
そのため、ギリシャ軍とトロイ軍が戦うことになってしまった。
しかし、チャナッカレで10年間戦ったがなかなか決着がつかなかった。
するとギリシャ軍が、もう終わりにしようとトロイに木馬を贈ってきた。
トロイ軍は夜、城内にその木馬を入れた。するとその中から兵隊が出てきてトロイの町を攻めた。
しかしこの木馬の話は伝説で、その戦争の本当の理由はチャナッカレ海峡を渡ることだった。
この海峡を渡れば、マルマラ海を経てイスタンブールのボスポラス海峡、黒海、ロシアまで行くことができる。
第一次世界大戦もこの海峡のために起こった戦争。
現在これらはみなトルコのもので、各ポイントで軍の基地があり誰も勝手に入ることはできない。
チャナッカレ海峡ではいつも戦争をやっていた。
これからそのトロイ遺跡に行くが、そんなに期待するほどのものはない。
すごく古くて、神殿のような遺跡は明日行くエフェソスあたりから出てくる。
神様の名前は時代によって違う。
古代ギリシャ時代にはゼウス、ローマ時代にはジュピター(日本語では木星だがゼウスという意味)に変わる。
その後マーズ(日本語では火星)。火星は古代ギリシャ神話の戦争の神様という意味。
ネプチューン(海王星:海の神様)、ウラヌス(天王星:天の神)、マーキュリー(水星:商売の神)など。
チャナッカレ海峡の方からずっと西海岸、地中海も入れて、トルコには3092の遺跡がある。
トルコ人が初めてここに来たのは11世紀の1071年でサルジュークトルコ、その前はずっとギリシャ文化だった。
そのため、みなさんが勉強したギリシャ文化やギリシャ神話はみんなここであった物語。
チャナッカレ海峡の一番狭い場所は1370m、さっき船で7km渡った。
これからイスタンブールに再び戻るまで、ずっとアジアサイド(アナトリア半島)を周る。
チャナッカレの町は人口が10万人。
「3月18日大学」がある。3月18日は戦争が始まった日。
向かいの海岸には兵隊の絵が描かれた山がある。そこでアタテュルクが戦争に入った。イギリス、フランス、ギリシャなどの軍がいた。
羊がたくさんいるが、これからカッパドキアの方に行くとたくさん見られるようになる。
このあたりは、モモと林檎の生産地。林檎は日本の姫リンゴのような有機栽培のもの。
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ほどなくランチをするツサンホテルに到着。
今日のメニューは、トマトスープ、いんげんの前菜、タラのフライ、デザート。
デザートは何種類かの中から選べて、私は一番甘くなさそうなプリンにしました。
トルコ(のこの辺りは)は、魚が美味しい。
ハヤティーさんによると刺身はあまり食べないらしいですが、日本人の私からするともったいない。
昨日食べたサーモンなんてお刺身で食べたら美味しかっただろうな~(グリルでも十分いけたけど)
今食べたタラのフライは、よくあるフィッシュアンドチップスの白身魚のようですが、身がフワフワでパクパクいけちゃいました。ボリュームがありましたが完食です。
また、この辺りはトマトの産地で、トルコ全体で年間800万トン収穫されるのだとか。
収穫は12月と1月で、ほとんどが有機栽培ということ。
ナマも完熟で美味しいですが、トマトスープも濃くてうまい!
このホテルの食事は、添乗員さんもおすすめというだけあって美味しかったです。
トロイ遺跡の入口を入ると木々の向こうにトロイの木馬が見えました。
最近まで修復されていたようですが、それも終わり上れるようです。
木馬は最後にまわして、まずは遺跡の観光。
事前に聞いていたように、立派な神殿などはなく、崩れた土台が点在しているくらいです。
=====ガイド=====
壺は紀元前1世紀(ローマ時代)、土管は紀元前3世紀で、このトロイ遺跡では一番新しいもの。
ここでは青銅器時代から始まるので、ローマやギリシャ時代は新しい。
トルコの人は、オスマントルコの建物に住んでいるので、17とか18世紀はそんなに前の時代だと思わない。
6層の部分が保存状態がいい。
この層のとき人口は3万人だった。現在では8000人。
テントの入口には、「風がトロイの町に富みをもたらした」と書いてある。
この辺りは風が強く港に着いた船はなかなか海峡から出ることができなかったため、商人たちは何日も町に滞在しお金を落としていった。
このテントはここから出てきた遺跡を雨風から守るために建てられた。
トルコにはこういう遺跡が3092あり、ギリシャ全体の9倍ほどになる。
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高台に行くと、遠くの方に海が見えました。
トロイは重要な港だったそうです。
トロイの木馬は近くで見ると結構大きい。
はしごが掛けられていて、そこを上って中に入ることができます。
トロイ遺跡観光の後は、今日の宿泊地エデレミットへ向かいます。
さすがリゾート地だけあって、エーゲ海沿岸にはおしゃれな家が立ち並んでいました。
■動画:トルコのエーゲ海沿岸のエデレミット
今日泊まるホテルはAdrina Hotel De Luxe Health & Spa(アドリナホテルデラックスヘルス&スパ)という5つ星ホテル。
ロビーも開放的で、都会のホテルよりものんびりとした雰囲気があって心地よい。
割り当てられた部屋はエーゲ海に一番近い角部屋。
テラスに出ると、夕日に光る海が一望できました。
夕食までまだ時間があったので、ちょっと外を散歩してみることに。
ホテルのプールと庭を横切ると海の方に出られる門がありました。
夕暮れ時ですが、寒くもなく暑くもなく歩くのにはちょうどよい気候です。
もう夏のシーズンは終わっているせいか、海岸はひっそりとしていました。
沿岸には石畳の遊歩道が続いていて、地元の人たちもおしゃべりしながら楽しそうに歩いています。
覚えたてのトルコ語「メルハバ(こんにちは)」と挨拶をかわしながら歩いていくと、岸から少し離れた海上に小さな船が浮いているのが見えました。
その船では一人の男性がオールを漕ぎ、夕日でキラキラする波に揺られています。
また、岸の方に目を移すと、岩のでっぱりの先っぽで、スクーターで出向いたらしいお父さんが、恐らく持参の椅子にこしかけて、ぼんやりと釣り糸を垂れていました。
なにげない風景ですが、なんだか夕暮れのエーゲ海で見るとなんとも絵になる光景。
一仕事終えたあとに「じゃ、ちょっといってくる」と奥さんに声をかけ、この海で一人いろいろなことを考えているんだろうなぁ・・などと勝手に想像してしまいました。
そんなほっこりした景色を眺めつつ、気持ちの良い風に吹かれながらホテルに戻りました。
夕食の時間になったのでホテルのレストランに行くと、どこかのパーティ会場のような趣。
入り口付近にたくさんのカラフルな料理が並んでいます。
白ワインを頼んでさっそくいただきましたが、トマトやオリーブ、魚の産地だけあってみんな美味しい。
お腹一杯になって部屋に戻る前、このホテルにも併設されているハマムを見に行ってみました。
受付の女性に「見学させてください」と言うと「よろこんで!」という勢いで自ら先頭に立ち案内してくれました。
綺麗に掃除された更衣室から屋内プールもあり、イスタンブールのホテル同様おすすめです。
ところで、このホテルに着く前に、添乗員さんから「明日からたくさんの見どころが出てくるのでカメラの充電を忘れないように」と言われました。
もちろん言われるまでもなくその辺の準備は万端なのですが、今回は新しく買った変換プラグも持ってきました。(いつもは電気の不安定な場所に行くことが多いので、替えのバッテリーをたくさん持っていく)
私が買ったのは、世界中のコンセント対応の【送料無料】【カード決済可能】カシムラ カシムラ マルチ変換プラグサスケ。
これひとつでみんな賄えるのでとても便利です。
→次は、世界最大級の古代都市遺跡エフェスと世界遺産パムッカレの石灰棚