主な訪問地:パムッカレ~コンヤ~カッパドキア
パムッカレからセマーで有名なコンヤを経てカッパドキアまで長距離移動。コンヤからカッパドキアまではシルクロードを通る。バスの中では「エルトゥールル号遭難事件」や「イラン・イラク戦争でのトルコ航空による日本人救出」など、日本とトルコの関係に纏わる話をたくさん聞いた。カッパドキアでは、人気の5つ星洞窟ホテル「カッパドキア ケーブ リゾート スパ」に宿泊。
6時半朝食。
7時半にホテルを出発しパムッカレの町に出ると、さすが温泉地だけあって草津の湯畑のような場所がありました。
近くには朝早くからマーケットが開いていて、どうやらこのあたりが中心街のよう。
昨日は暗くてよく見えませんでしたが、こじんまりとした街です。
町を通り抜けると荒涼とした風景が広がり、その向こうに昨日訪れた石灰棚が見えました。
夕日に染まるその姿は本当に綺麗だったな~
今日はカッパドキアまで長距離移動です。
バスに揺られながら、まずは添乗員さんから今日の予定の説明。
=====ガイド=====
コンヤ近くになると、景色がもう少し荒涼として小麦の畑なども広がってくる。
カッパドキアに近づくとハサン山やエルジエス山などが見えてくる。
その山はカッパドキアの不思議な景観をもたらした火山噴火をした山。
途中からはシルクロードの道。
コンヤを出た後、隊商宿(キャラバンサライ)もある。
これから2時間弱くらい走ってディナールまで。
そこははちみつヨーグルトで有名な場所。
ヨーグルトが特徴的で、とても濃くお皿を逆さまにしても落ちない。
松のはちみつとケシの実がかかっているのでよく混ぜて食べる。ここでしか食べられない。
このあたりはモルヒネがとれるケシの実を栽培している。
またバラも有名でバラ製品がたくさん売っている。
そこからまた2時間ほど走って、イスリムケバブのお昼ご飯。
ケバブとは、肉全般の料理をいう。
ランチのあとまた2時間くらいでコンヤに着く。
コンヤではメヴラーナさんという方が開いた、ぐるぐる回って神に近づくというメヴレヴィー教団の今は霊廟になっているメヴラーナ博物館を見学。
とても神秘的で、実際に回っているところは特別なときにしか見られない。
普通の人は10回も回ると倒れてしまうと思うが、この人たちは10分でも20分でも回っている。
エジプトでも見ることができるが、もともとはここから伝わった。
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続いてハヤティーさん。
=====ガイド=====
今から1時間40分走ってディナールまで。
はちみつヨーグルトで有名。持って帰ることはできないのでそこで食べる。
バラクリームやバラ水などのバラ製品も特産。
そこからまた1時間40分走ってアクシュヒルでランチ。
その後2時間走って14時半くらいにコンヤ。ここでは13世紀のメヴレヴィー教団に行く。現在では博物館として運営されている。
こういった教団とか神学校などは、初代大統領によってみんな解散させられた。
コンヤはとても歴史的な町でオスマントルコの前の首都だった。
だいたい1時間くらい博物館を見学して、その後カッパドキアまで約3時間半。途中スルタンハヌのキャラバンサライで休憩1回。ここには13世紀の隊商宿で昔のホテルがある。
コンヤからカッパドキアまで有名なシルクロードを走り、19時半ごろホテルに到着予定。
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バスに乗ってうつらうつらしていると、ディナールに到着。
さっそく「はちみつヨーグルト」をひとつ食べてみました。
聞いていた通り、かなりコシのあるヨーグルトでケシの実とはちみつがかかっています。
とっても美味しくてケシの実の歯ごたえがいいアクセントになっています。
まだ時間があったので、併設されているお土産屋さんに行ってみました。
特産のバラ製品がいろいろありましたが、試供品のクリームを塗ってみるととてもしっとりしていい感じだったのでひとつお買い上げ。
他の女性陣もたくさん買っていました。
今日も移動が長いので、バスの中ではいろいろな話が聞けました。
有名な「エルトゥールル号遭難事件」や「イラン・イラク戦争でのトルコ航空による日本人救出」など、日本とトルコの関係に纏わる話は何度聞いても感動します。
=====ガイド=====
日本とトルコの仲は世界で一番いい。
日露戦争の経緯もあるが、昔、和歌山県の串本町沖でトルコのエルトゥールル号が遭難したのがきっかけ。
トルコの人はそのことを学校で勉強している。
私は、小学校二年生のときに勉強した。それで日本に興味をもっていろいろな映画を観て日本にも行った。
オスマントルコ時代、日本では明治23年、トルコの王様は明治天皇にたくさんの贈り物を贈った。その贈り物を乗せた軍艦は、スルタンのプレゼントを天皇に渡した後、和歌山県の串本町沖で沈没した。そのとき、たくさんの海軍が亡くなったが、明治天皇をはじめ、日本国民はたくさんの援助をした。
またその後、今度はトルコが日本人を助ける出来事が起きた。
イラン・イラク戦争でテヘランにとり残された日本人をトルコ航空を飛ばして脱出させた。
ここで、エルトゥールル号遭難の話を紹介する。
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エルトゥールル号の遭難
和歌山県の南端に大島がある。その島の東には灯台がある。石造りでは日本でいちばん古い。明治3年にできた樫野崎灯台。今も断崖の上に建っている。
びゅわーんびゅわーん、猛烈な風が灯台を打つ。どどーんどどーん、波が激しく断崖を打つ。台風が大島を襲った。明治23年9月16日の夜であった。
午後9時ごろ、どかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほうから音がした。灯台守は、はっきりとその爆発音を聞いた。
「何か大変なことが起こらなければいいが・・」
灯台守は胸騒ぎがした。しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、もう、何も聞こえなかった。
このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。全長76メートルもある船。
しかし、まるで板切れのように、風と波のカでどんどん近づいてくる。
「あぶない!」
灯台の断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には、岩がにょきにょき出ている。
ぐわーん、ばりぱり、ばりばりばり。船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。この爆発音を灯台守が聞いたのだった。
乗組員は海に放り出され、波にさらわれた。またある者は自ら脱出した。
真っ暗な荒れ狂う海。どうすることもできない。波に運ばれるままだった。そして、岩にたたきつけられた。
一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつかった。意識を失い、岩場に打ち上げられた。
「息子よ、起きなさい」
懐かしい母が耳元で囁いているようだった。
「お母さん」
という自分の声で意識がもどった。真っ暗な中で、灯台の光が見えた。
「あそこに行けば、人がいるに違いない」
そう思うと、急にカが湧いてきた。40メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着いたのだった。
灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。顔から血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。
灯台守は、この人が海で遭難したことはすぐわかった。
この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだと感嘆した。
「あなたのお国はどこですか?」
「・・・・・」
言葉が通じなかった。
それで「万国信号書」を見せて、初めてこの人はトルコ人であること、船はトルコ軍艦であることを知った。また、身振りで、多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかった。
「この乗組員たちを救うには人手が要る」
傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。
「樫野の人たちに知らせよう」
灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだした。電灯もない真っ暗な夜道。人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。
灯台に戻ると、10人ほどのトルコ人がいた。全員傷だらけであった。助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。
この当時、樫野には50軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを聞いた男たちは、総出で岩場の海岸に下りた。
だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えた。目をそむけたくなる光景であった。
村の男たちは泣いた。遠い外国から来て、日本で死んでいく。男たちは胸が張り裂けそうになった。
「一人でも多く救ってあげたい」
しかし、大多数は動かなかった。一人の男が叫ぶ。
「息があるぞ!」
だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。自分の体温で彼らを温めはじめた。
「死ぬな!」
「元気を出せ!」
「生きるんだ!」
村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗組員の意識がもどった。船に乗っていた人は600人余り。そして、助かった人は69名。
この船の名はエルトゥールル号である。
助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。
当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなかった。井戸もなく、水は雨水を利用していた。
サツマイモやみかんがとれた。漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活だ。
ただ各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。
このような村落に、69名もの外国人が収容されたのだ。
島の人たちは、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。だが、どんどん蓄えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。台風で漁ができなかったからである。
「もう食べさせてあげる物がない」
「どうしよう」
一人の婦人が言った。
「にわとりが残っている」
「でも、これを食べてしまったら・・」
「お天とうさまが、守ってくださるよ」
女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人に食べさせた。
こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁重に葬った。
このエルトゥールル号遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に報告された。
明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還された。
このことは、日本じゅうに大きな衝撃を与えた。日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。
後日、次のような物語がある。
イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。イラクのサダム・フセインが、「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。
日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。
その日本人たちは、あわててテヘラン空港へ向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。
世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。日本政府は素早い決定ができなかった。空港にいた日本人はパニック状態になっていた。
そこに、2機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。
日本人215人全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。タイムリミットの1時間15分前のことである。
なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。
前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。
「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子供たちでさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」
文:のぷひろ としもり
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そして、現在串本町には、トルコ軍艦遭難碑や慰霊碑、トルコ記念館が建って、5年に一度トルコ大使館と共催で行われる「エルトゥールル号殉難者慰霊祭」では、トルコ大使、トルコ海軍代表、日本トルコ両国に関係するほとんどの団体の代表者が参加している。
日本とトルコの友好関係は本件により高まり、その後、共通の敵であるロシアとの間で行われた日露戦争の勝利をもっとも喜んだのもトルコだった。
日本海海戦の名将「東郷」にちなんで、トーゴーという名前もトルコでは多くつけられている。
さらに、サッカーワールドカップでは、トルコ代表がユニフォームを串本町に寄贈したという話もある。
25年前にイスタンブールのボスポラス海峡では、黒海の玄関口で日本の建設会社が海峡の第二橋をつくった。その建設は、世界中の建設会社が手掛けたかったが、トルコは日本の会社を選んだ。
また最近、イスタンブールのヨーロッパサイドとアジアサイドの間のマルマラ海に大成建設が海底トンネルをつくっている。
さらにトルコには世界で二番目に大きなトヨタの工場もある。
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なんだか遠い昔の出来事が、今でもトルコの人たちの間で語り継がれているというのはうれしい限りです。
世界中には日本人の先人が築いてきたこのような話がたくさんありますが、そういった人たちの功績や努力を無駄にしないようにしないとな~と改めて思いました。
=====ガイド=====
トルコの農業
このあたりは大変土地が肥えている。
国全体は農業地帯になっていて、99.3%の自給率を誇り、世界の中でも珍しい。
場所によって農産物が違う。
イスタンブールからチャナッカレ海峡までは葡萄とひまわり、サラフィという白ワインが有名。
海峡を渡って南に行くと葡萄とオリーブ(世界で第二位の生産量)トマトは年間800万トン、いちじく、ピスタチオ、オレンジ、みかん、バナナ、パパイヤ、アボカドなんでもとれて有機栽培。
ビシリア地方はバラ製品、アナトリア高原地帯は小麦、じゃがいも、メロン、スイカ、ズッキーニなど。このあたりは牧草が広がり、羊もたくさん放牧されている。
もっと南の地中海東海岸の方に行くとトロス山脈があり遊牧民がテントで生活している。米、モモ、プラムなどの生産地。
黒海の東海岸は煙草、紅茶の生産地でここのリゼという町のチャイが一番有名。
メソポタミアあたりでは、ぶどうの生産地で最高級の赤ワインがある。
トルコの結婚事情
田舎の町では子供が多く3、4人いる家庭が多い。女性はだいたい18~20歳で結婚し、男性は兵役を終えて23~24で結婚する。イスタンブールなどの都会は物価が高いので子供は1人とかで少ない。
トルコは世界で二番目に国民の平均年齢が低く29歳。日本は40歳を超えている。
トルコの離婚率はとても低い。トルコの女性は文句を言わずよくがまんしている。
田舎では、男性はあまり仕事しない。朝ごはんを食べてカフェに行って、お昼に家に戻ってご飯を食べまた出かけ、夕飯を食べに帰りまた出かけるという生活。
亭主関白な家庭が多く男性天国と言われている。
トルコの学校事情
トルコの夏休みは、今年は6月14日からはじまって9月2日までだった。スペインとイタリア、フランスも一緒。
冬休みは2週間で1月の終わりから2月の初めまで。春休みは私立だけ。
学歴社会なので、高給な仕事につくには有名な大学を出なければならない。日本と一緒で入るのは難しく出るのは簡単。
義務教育は小学校5年間、中学校4年間の9年間。高等学校4年間、大学は専攻によって違う。最近は、幼稚園とか小学校は私立の方が国立大学に入れる確率がいい。
それぞれの国民性
ガイドの仕事はアメリカ人とイタリア人を相手にやっていた。今でもアメリカ人はやっているが、イタリア人はがまんできないのでやっていない。
イタリア人のガイドをすると夜中まで仕事が終わらない。
例えばベリーダンスに行くと、日本人なら遅くても10時半ごろできりのいいところで終れるが、イタリア人だと最後までみんないたいので12時半ごろまで帰れない。
また、時間通りに来ない、迷子になるなど大変。
一番早く起きるのは、アメリカ人と日本人のお客さん。
国によって雰囲気も違うが、イタリアだと南と北でお客さんの雰囲気が違う。南はものすごく賑やか。北と南が一緒のツアーになると座る位置も分かれてお互い話さない。話したくないらしい。北の人は「南はイタリア人じゃない」と言っている。
イタリア人だと、ランチは11時半には始められない。食べるには早すぎるからレストランに行ってもみんな中に入ってくれない。
例えば今日は、素晴らしいホテルに早く着くためにがんばって早朝に出発したが、アメリカ人と日本人はそういう理由に納得して早く起きてくれる。しかしイタリア人は早くても9時。みんな起きられないし言っても来ない。
また、アメリカ人のお客さんはお年寄りが多く、ものすごくトイレに行きたがる。一日10回、20回トイレ休憩。長時間がまんできない。
トルコ人は気が短くすぐに喧嘩になる。南イタリアやギリシャと一緒。
例えば、バーに行って目が合うとすぐにつっかかりものすごい喧嘩が始まる。
東の方だと女性を褒めることができない。観光客なら大丈夫だけど、トルコ人がやるとその女性に興味があると思われ、旦那さんやお父さんが銃を持って出てくることがある。
イスラム教の教え
これからコンヤに行くがとても宗教的な場所で、トルコのメッカみたいになっている。
女性は知らない男性に髪の毛を見せないようにスカーフをかぶっている。かぶる人は9歳からかぶる。
メヴレヴィー教団に行くが、イスラム教では7つの教えがあり世界でも有名。
創始者は哲学者のようなお坊さんで、セマー(旋回舞踊)という踊ることによって神様とひとつになる教えを説いた。踊るときは右手の平を上に、左手を下にして30分くらいぐるぐる回る。
神様からうけたものを貧しい人に分けるという意味。
犠牲祭でも喜捨をするが、時間のない人はお金を市役所に持っていく。
コーランには、自分の生きている時代で教えを調整してくださいと書いてある。
また教えにはそれができた意味がある。宗教はサウジで生まれたが、そこは暑い砂漠だったのでその環境ゆえの規律が生まれてきた。
例えば、豚肉はダメだが、それは暑いところで傷んだ肉を食べて死ぬ人が多かったから禁止になった。
現在では食べても大丈夫だが、誰もそれを変えることができない。
断食は、貧しい人の気持ちをわかるためにやるが、病気のときや旅行のときはしなくていい。
一日5回のお祈りをするようになったのは、昔、暑いサウジではみんな木の下などでぼんやりとして動かなかったから、お祈りによって早起きをし体を動かすようにさせるためだった。そのお陰で規則正しい生活になりとても元気になった。
アラブ世界では一夫多妻制だったが、男性はみんな戦争で死んでいたから、多くの女性を養うためにこの制度ができた。
トルコでは今は禁止になっている。
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イスラムの教え、例えば一日5回のお祈りとか大変そうだなと思っていましたが、こういった背景があって生まれたと知るとなるほどな~と感心してしまいます。
ハヤティーさんが言っていましたが、宗教の話はとてもデリケートで難しいので、なるべくコメント的なことは言わないようにしているそうです。事実のみをガイドとして話すに留め、個人的な自分の意見はタブー。特に異教徒の人たちのツアーだとそのほうがいいかもしれないですね。
今回話があった7つの教えというのはイスラム世界に共通したものだそうで、これを守っていれば争いなんて起こらない気がするのですが・・と、こういうことをハヤティーさんは言わないようにしているのでしょうね~
続いて、ローマや東地中海世界の話をたくさん書いている塩野七生さんの「奴隷から皇后になった女」という話を紹介してくれました。
=====ガイド=====
【内容】
ヴェネツィアの運河を軽やかに滑るゴンドラはなぜ黒く塗られているのか?トルコのスルタンに献上されたフランス女の辿った数奇な運命とは?古代の聖地巡礼ツアーの有り様は?『オデュッセイア』を地中海世界風に読み解けば…etc.。生身の人間が作り出した地中海世界の歴史。そこにまつわるエピソードを、細部にこだわり、著者一流のエスプリを交えて読み解いた好エッセイ。
【目次】
ゴンドラの話/デスデモナのハンカチーフ/ヴェネツィアのホテル/ある遺言書/城塞の話/ハレムのフランス女/オデュッセイア異聞/スパルタの戦士/大使とコーヒー/法の外の文明〔ほか〕
(「BOOK」データベースより)
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幸運に恵まれたと言われるスルタンスレイマン1世とロシアから奴隷として献上されたロクセラーナ(ヒュッレム・スルタン)の話です。
まるで映画のような人生を送ったロクセラーナ(ロシア女という意味)は、決して美女ではなかったようですが、奴隷から皇后までのぼりつめるほどの切れ者。あらゆる手を使いその地位を得、さらに自分の息子を次期スルタンにすべく奔走したそうです。
興味のある方はぜひ読んでみてください。
道すがらにあるスルタンダー近くの「SAPCI(サプジュ)」レストランでランチです。
今日のメニューは、野菜スープ、サラダ、ラフマージュン(トルコのピザ)、イスリムケバブ(肉のなす巻)、ケマルパシャ(甘いお菓子)です。
ラフマージュンは、薄い生地の上にひき肉が乗っかり香ばしくておやつにぴったりな感じ。(トルコはピザの発祥の地と言われている)
イスリムケバブもなすがトロトロでお肉に癖もなく美味しい~。
そして最後のお菓子は、シロップ漬けでやはり激甘。やっぱりこの甘さにはまだ慣れないな。
腹ごしらえの後再び移動です。
2時間半近くたったころ、セマーの看板が見えました。ようやくコンヤに到着です。
さらに少し走り、メヴラーナ博物館へ。
花が植えられた綺麗な庭が広がり、その脇に博物館が建っています。
建物の中は写真撮影禁止。やはりここも大賑わいでした。
庭の散策は後にして、まずは霊廟の中へ。
昔はメヴレヴィー教団だったところですが、1927年の初代大統領のときに解散させられ、それ以来博物館として公開されています。
=====ガイド=====
入口に昔のアラビア文字で「ここは神様の場所」と書かれている。
19世紀に菩提樹で作られたメッカのカアバ神殿の模型がある。
メッカはイスラエルではなくサウジにあり、預言者マホメッドは6世紀にメッカで生まれ、メディナでなくなった。
そのため巡礼者はそのふたつの町に行くが、最初にメッカに行って、そのあとメディナに行く。この町にはイスラム教の信者しか入ることができない。
模型の上には、メフメット二世のサインがある。
また葉っぱの上にはお祈りが書いてある。
イスラム教では火葬はできないので棺が並んでいるが、中に遺体は入っていなくその下に埋まっている。
棺の上にターバンが置かれていてこれは墓石を表している。
その棺に掛けられている布の色でどのような人だったかわかる。
白は教団の先生、緑は宗教の偉い人。
ここにも「神様」と書かれている。
アッラーは神様という意味だが、それを口から声に出して言う前に10回は考える。簡単に言ってはいけない言葉。
ものすごい必要になったら唱えるが、神様は人間の目には見えない。しかし、太陽や風、雷など、そのような感じで見ることはできる。
昨日行ったエフェソスの遺跡の近くに世界一有名な聖母マリアの教会がある。マリア様の最後の家だった。キリスト教の人はそこへミサに行く。
アルテミス神殿のところで見えた城塞は聖ヨハネ教会。
実は、コーランにはマリア様の話が書かれている。「聖母マリア様はイエスキリストの母親だった。大事にしてください。」と。
だから、聖母マリア教会にはイスラム教の人も行ってお祈りする。
つまり、キリスト教もイスラム教もユダヤ教も同じ神様を信じている。違うのは預言者だけ。キリスト教はキリスト、ユダヤ教はモゼ、イスラム教はマホメッド。
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こういう形の霊廟は、ウズベキスタンや新疆ウイグル自治区でも見ました。
一番奥に、創始者であるジェラルディン・ルーミー(メヴラーナ)の棺が安置され、ひときわ大きく煌びやか。金刺繍の布で覆われていました。
棺の部屋の隣には、ガラスケースで覆われたムハンマドのあごひげが入った箱が置かれています。
信者の人たちが次々とそのケースに開いた小さな空気穴に顔を近づけてお祈りしていました。
一旦外に出て、修行僧たちの人形や生活道具などが展示された棟に行きます。
小さく区切られた長屋のような部屋がずらりと並んでいて、とても時間内に全部は見きれません。
途中であきらめ、中庭を散策。
イギリスの庭園のような庭や、壁のレンガの微妙な色合いが綺麗です。
集合時間になったので、庭園の外に出てバスへ向かいます。
敷地の外には、お土産屋さんが並んでいて、その中にセマーの踊りをしている人形を発見。他にもキーホルダーなどのグッズが売られていました。
バスに乗り、シルクロードを通ってカッパドキアへ向かいます。
車窓からは、広大な農地と空が広がり爽快な景色。
■動画:コンヤからカッパドキアのシルクロード
コンヤから約1時間半かけてまずは途中の休憩所スルタンハンまで。
ここではシルクロードに点在するキャラバンサライ(隊商宿)を見ることができます。
誰の本だか忘れてしまいましたが、ここを訪れた旅行記が出版されているのだとか。
=====ガイド=====
キャラバンサライ(隊商宿)は昔のホテル。
昔の人はこの道を通ってトルキアまで行ったが、40キロごとにこのような宿があった。ラクダは日の出から日の入りまでこの距離を歩く。
トルコのシルクロードはイランの境目から入っていて、アララット山、エルズルム、エルジンジャン、スィワス、カイセリ、カッパドキア、スルタンハン、コンヤ、アフヨン、キュタフヤ、ブルサ、イスタンブールまで。
スルタンハンのキャラバンサライは外から見学。中に入るのは有料になる。
そこからカッパドキアのホテルまでは1時間45分。
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門の部分に綺麗なレリーフが施され重厚なつくり。
中には入りませんでしたが、時間があればちょっと見てみたかったです。
スルタンハンの休憩所では、トルコの切手やCDなども売っていて、切手はホテルなどではなかなか買えないので欲しい人は手に入れておくといいでしょう。
再びバスに乗りシルクロードを進んでいくと、だんだんと日が傾き綺麗な夕焼けになりました。
大昔にラクダと一緒に通っていた人たちも、この綺麗な空を見たのでしょうね。
外もとっぷりくれたころ、カッパドキアに到着です。
ここはきのこの形をした奇岩が織りなす世界遺産の景勝地ですが、何しろ真っ暗なので何も見えない。
絶景を楽しむのは明日にして、今日はおとなしくホテルへと向かいます。
=====ガイド=====
現在の気温は10度。朝にかけてさらに冷え込むと思う。
カッパドキアは絨毯の産地でもあり、「ヘレケ」という絨毯は世界でもキングオブ絨毯と言われる有名なもの。
今日のホテルはウチヒサルにあるCappadocia Cave Resort & Spa(カッパドキア ケーブ リゾート スパ )というところでとてもいいホテル。
人気があるので、運転手さん、ガイドさん、添乗員は泊まれず、近くの別のホテルに泊まることになった。
このホテルは、もともと洞窟としてあった穴を改造して作ったので同じ部屋はない。
明日は8時半の出発を予定しているが、早朝7時ごろ朝食のレストランにくると、天気が良ければ気球が上がっているところを見られる。
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細い石畳の路地を慎重に進むとホテルに到着。
ホテルはウチヒサルの丘の中腹にあるので、町の夜景が綺麗に見えました。
このホテルはカッパドキアの中でも有名な5つ星の洞窟ホテルで、今日から2連泊します。
このツアーの中で、最後に泊まるアガサクリスティゆかりのぺラパレスホテルとともに楽しみにしていました。
ロビーでウエルカムドリンクをいただき、部屋に向かいます。
パキスタンで泊まった宮殿ホテルのような入り組んだ造りで、最初は案内してもらわないと部屋がどこにあるのかわかりません。
私の部屋はちょっと階段を上がった外に面した場所。ワクワクしながら部屋に入ります。
ステキ~~!
想像以上に広く近代的。女子なら絶対に気に入ると思います。
ドアの外がすぐに外とはいえ、床暖房がしっかりきいてあたたかく、バスルームも寒くありません。
バスローブは部屋用とスパ用の二着あり、テーブルの上にはウエルカムフルーツも。
壁には大きな液晶テレビも完備です。
一休みしてホテルのレストランへ。
壁一面窓になっているのでこれは景色が良さそうです。
厨房の入口には大きなモニターが設置され、調理の様子をリアルタイムに映していました。
スタッフの動きもテキパキとしていて、お客さんの対応も慣れた様子。
また、ナイフとフォークとともに「おてもと」と書かれた割り箸も置かれ至れり尽くせり。
とても日本人のお客さんが多いのでしょうね。
今日のメニューがテーブルに置かれていたので見てみると、
と書かれていました。
長距離移動でお腹もペコペコなので、楽しみです。
まずは、カッパドキアのワインで乾杯。
カッパドキアは美味しいワインの産地で有名だそう。
スープから始まり、春巻き、サラダ、ケバブ、デザートと続きますが、ケバブが最高。お肉も柔らかく、しっかりと下味もついていて、添えられたヨーグルト風味のソースとよく合います。
お腹いっぱいいただきました。