アジアとヨーロッパの架け橋と言われるトルコの旅行記。トルコ航空のコンフォートクラスとデラックスホテルを利用した少し贅沢な旅。世界三大料理の伝統的なトルコの宮廷料理からベリーダンスのディナーショー、ボスポラス海峡のディナークルーズ、街角の伸びるアイスやサバサンドまで堪能。絢爛豪華なモスクや奇岩の絶景が広がるカッパドキア、夕日に染まるパムッカレの石灰棚など、初めてトルコを訪れる人にはおすすめの定番コース。
主な訪問地:イスタンブール~トロイ~エデレミット(エーゲ海)~エフェス~パムッカレ~コンヤ~カッパドキア~アンカラ
旅行時期:2013年9月~10月/利用航空会社:トルコ航空/[外務省]トルコ基本情報
トルコ旅行 評価:4.5 -kaycom
成田空港の旅行会社のカウンターに9時半集合。
今日から10日間の日程でトルコを巡るツアーの添乗員Wさんと他のメンバーたちと顔合わせ。
参加者は全員で16人で、男女がほぼ半分ずつ。
今回はとにかくラクで快適に行きたかったので、少々高いですが、トルコ航空のコンフォートクラスで行くデラックス版のツアーにしたことと、連休でもないこの日程の10日間ということで、参加者のほとんどがリタイアしている年代の方でした。
搭乗開始になり機内に乗り込みます。
コンフォートクラスの座席の並びは、2-3-2でさすがに広い。
これで往復10万円弱のプラスならお買い得でしょう。
12時、定刻で離陸。
成田からイスタンブールまでは約12時間のフライトです。
飛行機の長距離移動が嫌いな私にとってはかなり長いですが、座席の広さと直行便ということで少しは気が楽でした。
コンフォートクラスには、小さなポーチに入ったトラベルグッズやスリッパなどがついてきて、機内食も食器で出てきます。
この便では、お昼と朝の2回。
飲み物も各種揃っていますが、自家製レモネードとオレンジジュースがおすすめだとか。
座席の前のスペースも十分に空いているので思い切りシートを倒しても大丈夫。
おかけで快適に12時間を乗り切ることができました。
イスタンブールには、予定より少し早目の18時前に到着。
日本とトルコの時差は6時間なので、時差ボケもほとんどありません。
さらに、トルコへの旅行はビザも出入国カードなどの記入も必要ないのでとてもラクです。
空港についたスーツケースはポーターさんに頼むと、ターンテーブルからのピックアップからバスへの運搬まで全部やってくれるシステム。
これもとってもラクチンで助かります。
空港で今回のツアーのスルーガイド、ハヤティーさんと合流。
この道20年のベテランです。
建物の外に出ると、気温も湿気も匂いも景色も東京と変わらない感じ。
群がるような客引きもなく、あっさりとバスまでたどり着きました。
バスはとても豪華で床はフローリング、座席には個人モニターもついて、トイレも完備。
前の席との間隔もかなり広くて足掛けに足が届かないほど。
あとで聞いたのですが、このバスは最近ドイツから導入した新型で、まだトルコにしかないそうです。
お値段はざっと5000万円だとか。
これでアンカラまでの長距離を移動できるとはうれしい限りです。
空港からホテルまでは約20分ほど。
道はとても綺麗で、街並みも整然としています。
途中、トルコ名物の渋滞に少しはまりましたが、ハヤティーさんのガイドを聞きつつのんびり進みます。
今回もラダックのときのように、ガイドさんの説明を録音すべくICレコーダーを持参しましたが、何しろツアーの人数も多いし、行くとこ行くとこ混雑しているのでピッタリくっついて録音することが難しい。
なので、可能なところだけ拾ってきました。
19時ホテル到着。
今日から2連泊するRenaissance Polat Istanbul Hotel(ルネッサンス ポラット イスタンブール ホテル)は、マルマラ海が目の前に広がる五つ星ホテルです。
入り口のセキュリティーチェックを受けロビーに入ると、結婚式があるらしく花嫁さんと花婿さんがいました。
吹き抜けの造りがとてもおしゃれです。
鍵をもらってエレベーターに乗ると、ここもセキュリティのためカードキーを挿さないと部屋に行けないしくみ。
そんなに治安が悪そうな感じはしませんでしが、すごい厳重です。
このホテルではオーシャンビューが指定なので、部屋からは海が一望できるはず。
今はもう暗いのでよく見えませんが、明日の朝が楽しみです。
朝起きて窓の外を見ると、ちょうどマルマラ海に朝日が昇っていました。
海には何隻もの船が浮かんでいます。
朝食を食べて9時ホテル出発。
今日はイスタンブールの市内観光です。
イスタンブールの観光は、今日とツアー後半に分けて周る予定。
観光を始める前に、まずはバスの中で街並みを眺めながらハヤティーさんによるトルコについての講義です。
=====ガイド=====
トルコの歴史は大変深く難しい。
ここでは12の文明が誕生した。
ここは、イスタンブールのヨーロッパサイド。このあたりは昔トラキアと呼ばれていた。
チャナッカレという町からチャナッカレ(ダーダネルス)海峡を渡るとアジアサイドになる。
イスタンブールは大都会で人口は1800万人。
マルマラ海と黒海に囲まれている。
マルマラ海にはたくさんの船がいるが、これはボスポラス海峡を渡るために順番待ちをしている。勝手には入れない。
イスタンブールは長い歴史の中で4回名前が変わっている。
最初はビザンチンと呼ばれ、これは、1784年にひとりのフランス人の大学の先生が作った呼び名。
ビザンチンとは東ローマ帝国のこと。
紀元前7世紀に、ビザンツという方がギリシャのダフィシュネに行った。そこにいた預言者たちが彼に、現在のトプカプ宮殿のまわりに町を作ることを勧めた。
そのようにして初めてビザンチンという町ができた。
その後、396年にイスタンブールは東ローマの首都になった。そのときイスタンブールは「ネオローマ(新しいローマ)」と呼ばれていた。
簡単に言うとこの町は15世紀までにずっとビザンチンの町だった。15世紀にメフメット2世によってオスマントルコになった。
日本ではだいたい安土桃山時代のこと。
ビザンチンの城壁は今でも残っており431年のもの。
昔のビザンチン帝国は9キロの城壁に囲まれていた。
これからバスごと城内に入るが、中の旧市街は、28年前に世界遺産に登録されている。
海沿いには7世紀(日本でいうと奈良時代)のビザンチンの港の跡コンドスカレもある。
トルコを漢字にすると「土耳古」と書き、「古代文明の国」という意味。
国家はチューリップ。
チューリップの花はもともとトルコのものでオランダではない。16世紀にイスタンブールのトプカプ宮殿からオランダにいった。
チューリップという言葉は「チュリパン」という言葉から出てきた。チュリバンから現在では「ターバン」という言葉も出ている。ターバンはトルコの帽子(王様の帽子)。チューリップの形をしている。
毎年4月にはイスタンブールでチューリップの祭りがある。
イスタンブールにはイスラムのモスクが823ある。
これからブルーモスクに行くが、このモスクは世界で2番目に大きい。一番はサウジのメディナにある。
サウジのメッカとメディナはイスラムの世界では2つの聖地になる。預言者マホメットが生まれた町と亡くなった町。
ここは大変厳しく、二つの町にはイスラム教徒だけしか入れない。厳しいからトルコ人はいかない。
トルコの国全体の3.3%だけがヨーロッパに入っている。残りは全部アジアサイド。
そのため、トルコのことはふたつの言い方がある。
ひとつは小アジア、もうひとつはアナトリア半島。アナトリアとは古代ギリシャ語で「日の出の国(文明の発祥地)」という意味。
これから行くブルーモスクについて。
なぜ「ブルーモスク」と言われているのかというと、中がブールだから。
トルコ人はブルーモスクとは呼ばず「スルタンアフメットモスク」と言っている。スルタンはオスマントルコの王様のこと。
ブルーモスクは17世紀のオスマントルコの黄金時代にアフメット1世が建てさせた。
中は素晴らしいブルーのタイルでできているので現在ではブルーモスクと呼ばれている。このタイルは日本で言うと伊万里焼みたいなもの。ブルサとイズニックの焼き物で、このあたりは焼き物の他に草木染シルクが有名でブルサはオスマントルコの最初の首都だった。
トルコを観光する際の注意点。
トルコの女性は、8割くらいはみなさんと同じ格好をしている。スカーフをかぶっていなかったりミニスカートをはいている。
しかしあとの2割は敬虔な信者さんなのでスカーフをかぶっている。そういう人たちをターゲットに無断で写真を撮ると問題になることがあるので、もし撮りたい場合は本人に聞いてみること。
また、頭から足まで黒い服を着ている女性は、トルコ人ではなくイランとかサウジから来たシーア派の人たち。そういう人たちはものすごい厳しいので、絶対に写真を撮るのはやめてほしい。
イスラム教は基本的にスンニ派とシーア派に分かれていて、トルコ人の97%はスンニ派。そして、例えばイラン人は93%がシーア派でトルコとは逆。
このふたつの大きな違いは、預言者マホメットの歴代の相違。スンニ派はマホメットから4人の後継者が続き、シーア派はマホメット後1人だけ。
ユダヤ教とキリスト教には10の義務があり、イスラム教には5つある。
この3つの宗教はほとんど同じだが、時代と預言者だけが違う。預言者とは神様のお告げを伝える人。
ユダヤ教は紀元前5世紀くらい(仏教と同じくらい)で預言者はモーセで旧約聖書、キリスト教はキリストで新約聖書、イスラム教は7世紀に始まってコーランができ、預言者マホメットが生まれたのは6世紀。
この3つの宗教の共通点は神様が一人だけで火葬はしない(土葬だけ)。
コーランの5つの義務とは、
イスタンブールやエーゲ海の方のトルコ人はあまりお祈りも断食もしない。こういう町では老人だけがモスクに行ってお祈りしている。田舎の方にいくとみんなやっている。
イスタンブールは多民族国家になっていて、イスラムのモスクの他にもキリスト教の教会が96、ユダヤ人の教会が17あり、その他少数民族も住んでいる。
旧市街の魚市場では、スズキ、アジ、イシガレイなどがあり、ほとんど黒海でとれたもので、特にカレイとヒラメは世界で一番美味しいと思う。
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ヨーロッパの情緒漂う石畳の路地を進み、ブルーモスク(スルタンアフメット・ジャーミィ)のふもとでバスを降りて中へ入ります。
すると入り口にはすでに行列が。
女性は髪を隠すためのスカーフを被らないと建物内へ入ることができません。
露出の多い服もNGです。
靴を脱いで奥へ進むと、赤いトルコ絨毯が敷き詰められ、天井からは絢爛豪華なシャンデリアが釣り下がりなんとも煌びやか。
区切りがされたエリアの奥には、メッカの方を向いた祭壇があり、信者でない者はそこまで行くことができません。
たくさんの観光客がひしめく中、ガイディングレシーバーで説明を聞きます。(これがないと聞こえない)
=====ガイド=====
ブルーのタイルが使われているからブルーモスクと言われている。
このタイルはイズミックの焼き物。
壁の真ん中までタイルで、上はフレスコ画。
奥には祭壇があり、メッカのカアバ神殿の方に向いている。
代々木にもモスクがありその祭壇も同じ。
祭壇の右手に聖なる階段がある。
そこは聖職者だけが入れ、階段を上ることで神様に近づいていくという意味がある。
イスラム教の神聖な日とされる金曜日だけ使われている。
ちなみにユダヤ教は土曜日、キリスト教は日曜日が神聖な日。
一番大事なお祈りは、イスラム教だったら金曜日のお昼(夏時間は13時、それ以外は12時)、キリスト教は日曜日の10時半。
17世紀にアフメット1世の命により、建築家メフメット・アーが建てた世界で二番目に大きなモスク。
中には4000人が入ることができる。
床の絨毯は比較的新しいトルコ絨毯で、古いのは旧市街にある博物館に展示されている。
トルコ絨毯は草木染でダブルノット。
ランプの位置が低いのは、世界中のモスクも同じ。
なぜなら、信者がお祈りするとき手元にコーランを持っているから下の方にないと見えない。
他のイスラムの国は金曜日が休みだが、トルコだけは違って日曜日が休み。
それでも一番大事な祈りは金曜日。
このモスクでも金曜日にコーランが読まれお祈りする。
一日五回のお祈りの時は、他の宗教の人は入れなくなる。
イスラム教の人のパスポートには宗教の欄にイスラム教と書いてある。
昔オスマントルコ時代は、女性は二階でお祈りしていたが今は男女一緒に一階でしている。
女性は男性の後ろでお祈りするが、それはお祈りするとき、女性が前だと女性のお尻が男性の顔の前にきてちょっと気まずいから。(←ホントか?)
イスラム教は偶像崇拝が禁止されているから人間の顔などのイメージはどこにも描かれていない。
このメインドームは、1618年に建築家メフメット・アーがギリシャのロドス島から持ってきた、世界で一番軽く音響効果にも優れたレンガでつくられている。
ドームの下で手をたたくと、モスク全体に音が響く。
そのため、金曜日の礼拝の時、聖職者が説教台でマイクなしで話してもよく聞こえるようになっている。
世界中どこのモスクに行っても、8つの円盤状のものがある。
それぞれには、「神様」「預言者マホメット」、4人の後継者「アブ・バクル」「オマル」「オスマン」「アリー」、メッカとメディナの支配者「ハッサン」「フセイン」と書いてある。
この文字は昔のアラビア文字で書かれているので今のトルコ人には読めない。老人は読める。
現在トルコ人はトルコ文字を使っている。
1928年、トルコの初代大統領がアラビア文字をトルコ文字に変えた。
上の方にあるバルコニーでは、スルタン(王様)がお祈りしていた。
周りは鉄格子に囲まれ、軍人さんが守っていた。
世界中で十字架の形は3種類ある。
正十字、ラテン十字、T十字。
イタリア、スペイン、フランスは、教会がラテン十字の形で設計されている。ギリシャは正十字。シリア、ヨルダン、エジプトはT十字。
イスラム教の国の中で、トルコだけモスクが正十字の形になっている。なぜかというと、オスマントルコ芸術はビザンチンの影響でつながっているから、ギリシャ正教と同じ正十字になっている。他のイスラムの国のモスクはテント型。
ビザンチンはイスタンブールとカッパドキアの一部だった。ビザンチンのあと、オスマントルコ時代がやってくる。
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説明のあと少し写真タイムをくれましたが、何しろ混んでいるので思うように撮れません。
右往左往している間にあっという間に時間切れ。
ツアーなので仕方がないですが、もっとゆっくり見たかったな。(今後、こういうところがたくさん出てくる)
入口の反対側から外に出ます。
建物が大きすぎて近くからだと全景の写真が撮れません。
だんだん気温も上がり、日差しも強くなってきました。
湿気もあるので東京の夏と大して変わらない。
観光するにはちょっときついですが、ハヤティーさんによれば、これでも今くらいの季節と4月~5月が一番観光しやすいそうです。
ブルーモスクの敷地を出ると、公園をはさんだ向こう側にアヤソフィアが見えました。
アヤソフィアは今日は外観だけで中の見学はツアー後半です。
公園を通り抜け街中に出ると、石畳の道に線路が走っていました。
そして少しすると近代的なフォームをした路面電車が登場。見ていると、結構な頻度で行き交っています。
その道を渡り、小さな入り口から地下宮殿に入場。
たくさんの柱が立ち並びところどころライトアップされていてとても幻想的です。
でも、中はとても暗く湿気がすごい。
なのに入り口を降りたところにカフェがあります。
暗いので三脚を立ててゆっくり撮影したいところですが、団体旅行にそんな時間はありません。
ブレブレを承知で手持ちで撮影しながらハヤティーさんの後に着いていきます。
=====ガイド=====
ビザンチンの貯水池だった。今は博物館。
湿気が多いため、今でも天井からしずくが落ちて下にたまる。
そこには水を浄化するために魚が泳いでいる。
天井はレンガでできていて、18世紀のオスマントルコ時代に修復された。
中にある柱はほとんどがコリント様式で336本あった。
紀元前3~4世紀あたりのビザンチン時代に、エーゲ海の方の遺跡からこれらの柱を船で運んで持ってきた。
そういった石を使って内部が宮殿のようなため地下宮殿と呼ばれている。
貯水池内を見学する通路は26年前に作ったもの。
それ以前は、ボートにのって観光していた。
ジェームズ・ボンドの映画「007 ロシアより愛をこめて」の撮影が行われたこともある。
ビザンチンのメインの貯水池でこういうのは世界中でここしかない。
「涙の円柱(泣いている柱)」という涙の形が掘られた柱がある。
これは、紀元前4世紀にエフェソスの南にあるディーディマという町にできたアポロン神殿から持ってきた。アポロン神殿には123本の柱があったがそのうちのひとつ。
当時、悲しいことがあるとアポロン神殿の柱の前で泣いていたことから涙の柱と呼ばれている。
柱には穴が開いていて、そこに親指を入れて一回転できると願い事がかなうとされている。
イスラムには目玉の魔除けがあり「神様の目」と言っているが、実は紀元前4世紀に出てきたデザインで関係ない。
西海岸のカーリアという地方の素晴らしい大理石でできていて、アポロン神殿も同じ大理石でできている。
宮殿の奥にはわざと横と逆さまにしたメデューサの首がある。
1984年の修復の時に発見された。
ここはいろいろな時代が重なっている。
この場所は5世紀(日本で言うと飛鳥時代、トルコで言うとビザンチン)、柱やメデューサは紀元前4世紀、天井は17~18世紀。
ビザンチンもオスマントルコも同じことをやっていた。
王様がいい石はどこにあるかと尋ねると、「トルコの西海岸のアポロン神殿」という答えが返ってきた。
それで、そこを崩していい石を持ってこいと命令していた。
オスマントルコの王様というのは世界の三分の一の王様でものすごく強かった。
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外に出ると開放感と共に、強い日差しが降り注いできます。
そんな中、ランチにはまだ少し時間があるからと予定にはないヒッポドロームというローマの大競技場跡へ連れて行ってくれました。
地下宮殿からヒッポドローム(競技場跡)は目と鼻の先。
今は跡地なので実際に競技場はなく、広い広場になっています。
その中央にはいくつかのオブジェクトがあり、広場の脇にはトルコ・イスラム美術博物館も建っています。
=====ガイド=====
紀元前4世紀に建てられた競馬場。
「ベンハー」という映画のように馬車レースをやっていた。
ここはビザンチンの中心地だった場所で、今は公園になっている。
公園には3本の柱が建っている。
テオドシウス1世のオベリスク
高さは25.6mで、4世紀にエジプトからもってきたもので象形文字が書いてある。
紀元前16世紀には、世界中で同じようなオベリスクは6本しかなかった。
現在は、イスタンブールの旧市街、フランス、イギリス、アメリカ、イタリア(2本)にある。
柱は紀元前16世紀のものだが、土台は紀元後4世紀で、2000年の差がある。
へびの円柱
高さは8m。
紀元前5世紀にギリシャとイランで戦争があり、最終的にギリシャが勝った。
この柱は、その記念として作られた。
それを紀元後4世紀にギリシャからイスタンブールにもってきた。
柱には3匹の蛇の形をした金の玉があったが、今は、イスタンブールの考古学博物館、イギリスの大英博物館、ドイツのベルリン博物館に展示してある。
コンスタンティノス7世のオベリスク
高さは32mあり、もともとは金で覆われていた。
しかし13世紀に、イスタンブールは第4回十字軍に占拠され、そのときにすべて略奪されてしまった。
この柱から向こうにあるドイツの泉までが競馬場だった。
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時刻は11時半。
先ほど訪れたブルーモスクやアヤソフィア、街中にあるハマムや露店などを眺めながら、トプカプ宮殿の敷地内にあるカラコルレストラン(Karakol Restaurant ve Cafe)に向かいます。
歩いて10分ほどで、トプカプ宮殿の門に到着。
脇にはアフメット3世の泉があります。
=====ガイド=====
トプカプ宮殿の第一の門(皇帝の門)をくぐると宮廷内。
トプというのは大砲、カプというのは門で、トプカプは「大砲の門」という意味。
大砲が設置されていたのでこの名前で呼ばれていた。
その大砲は、現在、イスタンブールの海軍博物館にある。
レストランの脇には聖イリニ(アヤ・イリニ)教会がある。
4世紀(329年)にできた、イスタンブールで一番古いビザンチンの教会。
ランチのあとメインの宮殿に入るが、そこには素晴らしい秘宝があるので、機関銃をもった軍人が警護をしている。
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門をくぐると綺麗に整備された中庭があり、レストランは入口のすぐ脇にありました。
屋根が張られた屋外の席に案内。
暑さでぐったりしていたのであまり食欲はありませんでしたが、日陰で休めるのはうれしい。
冷たいピーチジュースを飲んでほっと一息つけました。
今日のメニューは、トルコの宮廷料理だそう。
トルコ料理は世界三大料理のひとつですが、正直、そんなに美味しいかな?というイメージでした。
世界三大料理は美味しさだけで選ばれたのではないと思いますが、料理なんだからやっぱり美味しくあってほしい。
果たして今まで食べたトルコ料理のイメージを本場で打ち破れるか。
前菜は、葡萄の葉でお米や肉などの具をくるんだドルマなど盛りだくさん。
もう前菜だけでお腹一杯。
メインはやはりドルマの煮込み。
お好みで別に出てきたヨーグルトをかけていただきます。
そしてデザートは、もちもちしたプティング(っぽいもの)と、食後のチャイ。
チャイはガラスのグラスにいっぱい入っているので、熱くてなかなか持てない。でもこちらでは、このスタイルでいただくのだそうです。
トルコの人はこのチャイが大好きで、一日に10杯以上飲むのも珍しくないとか。
この小さなグラスといい、熱くて持てないところといい、モロッコで飲んだミントティーを思い出しました。
宮廷料理の感想は、全体を通して、
う~~~~ん・・;;
もちろん好みによりますが、私の感想としては、まずくはないがそれほど美味しくもないというのが正直なところ。
見た限り、他のメンバーの反応も似たようなものでした。
ただ、せっかく異文化の国に来たのだから、その国の料理は食べてみないともったいない。
郷土料理体験ということでは、バリバリのトルコ料理なので一度は試す価値ありです。
宮廷料理のランチのあとはトプカプ宮殿の見学です。
すでに第一の門をくぐって中庭にいるので、その庭を通りぬけ第二の門へ。
セキュリティチェックを受け中に入るとトプカプ宮殿の模型がありました。
=====ガイド=====
トプカプ宮殿は町みたいな宮殿で、6000人が暮らしていた。
現在は誰も住んでいなく博物館になっている。
右サイドには煙突が10本建っていて台所だったところで、現在はいろいろな焼き物が展示されている。ほとんどが凱旋祝いで、日本からプレゼントされたものあり、伊万里焼、有田焼、備前焼などがある。
今は修復中で中には入れない。
左サイドにはハーレムがあり、日本の大奥のような場所だった。
その前には正義の塔(法律の塔)が建っていて、その下には裁判所があった。
宮殿の第三の門(幸福の門)を入るとすぐに謁見の間がある。
その前に図書館があり、左手には宝物館がある。
オスマントルコ時代というのは3つの時代に分かれている。
1299年にブンサという町で、オスマンという名前の王様が作った帝国。だからオスマントルコ帝国と言われている。ここから始まった。
その後の14~17世紀はオスマントルコの黄金時代。
この時代には、アラブ世界、北アフリカ、エーゲ海、地中海、スペインからハンガリーまでオスマントルコだった。
1868年、日本で明治維新があったころ、オスマントルコの衰退がはじまる。
国が大きすぎてどんどん落ちていった。
1915年3月18日、チャナッカレ海峡の方で戦争が始まる。最終的にトルコが勝ったが、93万人が亡くなった。
戦争の後、1923年にアタテュルクは今のトルコを作り、初代大統領となった。
トルコ人にとって、アタテュルクというのは神様みたいな存在。
どんなお札を見ても彼の写真が使ってある。彼は、1938年11月10日にイスタンブールのドルマバフチェ宮殿で死亡した。
建国後、亡くなるまでの15年間大統領を務めた。
トルコは非常に強かったため、今でもスペインやイタリアなどの国では、親が子供をしかるとき「いい子にしないとトルコ人を呼ぶぞ」と言っている。
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まずはハーレムの建物の中へ入ります。
内部は美しいタイルで装飾されていて、その細やかな模様に見入ってしまう。
=====ガイド=====
ハーレムとは「立ち入り禁止の場所」という意味。
王様と同じ家系の男性だけ入ることができた。
この中には2000人の女性がいた。
ハーレムは4つの階級に分かれていた。
一番はスルタンの母親、二番はスルタンの気に入った女性、三番はスルタンの子供の母親たち、最後はたくさんの女奴隷。
奥さんと言わなかったのは16世紀まで正式な妻がいなかったため。
初めて妻になったのがロシア人のヒュッレム・スルタン(ロクセラーナ←ロシア人の女という意味)。
彼女は19歳で奴隷としてトプカプ宮殿に入った。21歳でスルタンの気に入った女性になり、22歳で世界中で有名なスルタンスレイマンの正式な妻になった。そのあとずっとオスマントルコの正式な妻だった。
彼女はものすごい美人でインテリだった。
ハレム内の階級差別はものすごく、いったん中に入ったら一生出ることはできなかった。そのため刑務所のようだった。
壁には神様のところと書いてあり、周りには昔のアラビア文字でコーランのお祈りが書いてある。
タイルは16世紀から17世紀のもの。
宦官の部屋には、人形が展示されていて当時の様子がわかる。
当時のトルコでは女性は男性の4m後ろを歩いていた。
男性は離婚したかったら「離婚」と三回言えばできた。
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次に、女性たちの部屋、スルタンの母親の儀式用の部屋などへ。
壁の模様はもちろん、螺鈿細工に暖炉や窓枠のデザインも素敵。
謁見の間には、貴重なトルコ絨毯が展示されています。
よく見ると宝石が散りばめられているのがある。
王様はこの部屋で寝転がりながら謁見者と会っていたそうです。
宝物館の前に来ましたが、第一の部屋の入口はすごい行列。
中ではガイドができない決まりだそうなので、中庭の木陰で説明を聞きます。
=====ガイド=====
宝物館の中は撮影禁止。
4つの部屋に分かれていてるが、第二から第四は中でつながっている。
スタートは第一の部屋だが、左の部屋にいくにつれて豪華になるため、第一の部屋は後回しにした方がいい。
今回は、2番目の部屋から入ることにする。
たくさんの宝石があるが、その中でも世界中で有名なものが3つある。
みんな第四の部屋(一番左)にある。
宝物館の隣には民族衣装の部屋がある。
オスマントルコのファッションが見られるのでおすすめ。
また中庭をはさんだ向かいには宗教の部屋もある。
中にはメッカとメディナの金の鍵、預言者マホメットの足跡、使った刀などの宗教関係のものが展示してある。
さらに、宝物館の脇のアーチをくぐっていくとビザンチンの城壁、海峡、アジアサイドなどの素晴らしい景色が見える。
カフェもあるのでゆっくり休むこともできる。
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ここからは各自1時間の自由見学です。
まずは宝物館の第二の部屋から第四の部屋まで順番に見ていきます。
今まで色々な国の色々な博物館に行きましたが、こんなキラキラしたのが延々と続くところは初めて。
どれもこれも繊細な細工とふんだんな宝石で、知らず知らずため息が出てしまいます。
イスラムの世界で貴重とされるエメラルドがたくさん使われているのが印象的。
有名な3つ以外にも、大きなエメラルドを中央に配し羽飾りをしたターバン飾りや、宝石をちりばめた玉座(?)など、本当に手をかけて贅を尽くしたものが列挙されています。
しかしずっとそういうのばかり見ていくと、なんだか、この豪華さや派手さが無駄で空しく思えてくるから不思議。
こんなに飾り立てないと満足できなかったのか、それ以外に権力を誇示できなかったのか、そんな思いがよぎってしまいました。
さっきのハヤティーさんのガイドにもあった皇太子のゆりかごなんて、こんなキンキラの中で寝れるかー・・とか、所詮庶民の感覚なんでしょうけど、なぜだか、全部の部屋を見終わる頃にはすっかり興奮は冷めてしまいました。
最後の部屋を出るとマルマラ海が一望できるテラスに出ます。
涼しい風が気持ちいい。
続いて、中庭を横切り、宗教の部屋に行ってみました。
展示物は先ほどの宝物館と比べるとぐっと地味になりますが、歴史を感じさせるものばかり。
順路通り進んでいくと、小さな部屋の中でひとりのムスリムの男性がマイクの前でコーランを読んでいました。ずっと録音したものが流されているのだと思っていたのでビックリ。
次に、宝物館の脇のアーチをくぐり絶景の場所へ。
そこから下には確かにカフェも見えました。
さらに、民族衣装を展示している建物へ。
袖が長く厚手の生地は、シルクロードのどこかの国で見たことがあるような。
やはり絹の道でつながっているということなのでしょう。
最後に、行列がなくなっていたので、宝物館の第一の部屋へ。
宝物館の中では一番地味だと言うことですが、それでも十分キラキラしています。
そんな感じで時間切れ。
再び集合し、トプカプ宮殿を後にしました。
今日の観光はこれで終わり。
ちょっと早めですが、観光初日で暑い中たくさん歩いたのでありがたい。
トプカプ宮殿の前からバスに乗りホテルへ帰ります。
このホテルにはハマムがあり、宿泊者は無料(マッサージは有料)で利用できるということで、部屋に行く前にみんなで見に行きました。
ハマムには中央に大理石の丸い台があり、部屋全体に湯気が立ち込め結構な温度。
サウナが苦手な人(私)には、ちょっと苦しいかも。
ハマムのほかにもジムやプールもありました。
部屋に戻り少し休憩してからホテルのレストラン「POLAT」で夕食です。
メインを牛肉とサーモンから選べたのでサーモンにしました。
結果これが大正解。シンプルながら肉厚の身は柔らかく、焼き加減も塩加減も最高。
一緒に頼んだ白ワインも美味しくて大満足でした。
ただ、デザート(バクラバ)はかなり甘く、味見程度でギブアップ。
添乗員さん曰く、旅行が終わるころにはこの甘さくらいないと物足りなくなる・・とのことでした。(しかし、ほとんどの人が最後までダメだった)
トルコは野菜が豊富で、特に生野菜が安心して食べられるところがポイント高いと思います。(今回訪れた地域以外は不明)
私が今まで行った国では、それを洗った水でおなかを壊したり、農薬がすごかったりで、ちゃんとしたレストラン以外では食べられないことが多かった(そもそもナマで出ることが少なかった気がする)ので、なんだか先進国に来たな~という感じ。
トルコの水道水は飲料には向かないそうですが、歯を磨いたりするにはまったく問題がないということなので、そういう環境も影響しているのだと思います。
さらに、国内で生産されている野菜のほとんどが有機栽培だそう。
旅行中にこんなにたくさんの生野菜が食べられたのはトルコが初めてです。
→次は、チャナッカレ海峡を渡りアナトリア半島のギリシャ神話の世界へ